報告 「世俗化・宗教・国家」セッション 4
6月9日、「共生のための国際哲学特別研究I」第四回セミナーが開かれた。
今回は、タラル・アサド著『宗教の系譜—キリスト教とイスラムにおける権力の根拠と訓練』(中村圭志訳 岩波書店 2004年, 原題Genealogies Of Religion: Discipline and Reasons of Power in Christianity and Islam. Baltimore: The John Hopkins Univ. Press, 1993からの部分訳。)が取り上げられ、報告担当者(児島創、千葉昌子)による報告と出席者による議論が行なわれた。
アサドによる日本語版『宗教の系譜』は、フーコーの権力論を継承しつつ、宗教を権力と分離した独自の宗教領域として捉える西洋の宗教概念が成立した歴史的過程を論じ、近代的な宗教概念を生み出した西洋における宗教の系譜が、結果的に西洋と非西洋(イスラム世界)との権力の非対称を構成したことを解き明かす。
人類学の宗教論に対する系譜学的考察を行う冒頭の二章では、まず第一章で、クリフォード・ギアツに代表される普遍主義的定義を検証し、宗教を「象徴システム」と定義し、「象徴の意味」とを区別するギアツの議論において、意味のレベルに位置づけられるはずの生活の実践や社会的訓練が象徴から切り離されないことを指摘し、宗教の普遍主義的定義が抱える矛盾を突き、こうした定義こそが西洋の宗教の伝統の上に成立するとする。第二章では、中世において訓練に関わるとされた儀礼(ritual)が、近代に入って私的感情と公的行動とが分離されたことで、象徴的行為として読み解かれたとする儀礼概念の系譜を示す。続く二章では、中世ラテンキリスト教世界に分け入り、第三章でフーコーの議論を踏まえつつ、十二世紀に起きた神判から司法的拷問の制度化への移行を論じ、その転換点として第四ラテラノ公会議での告白や悔悛の秘蹟の制度化を指摘する。こうした司法的移行は必ずしも合理性の進展と宗教からの脱却として意味づけられるものではなく、むしろ教会の制度と深く結びつくものとしてあったことが論じられる。第四章ではキリスト教における宗教的訓練に焦点を当て、修道共同体における権力への自発的服従の形成過程が明らかにされる。第五章では、カントにみられる啓蒙主義からリベラリズムに至る西洋の伝統と、サウジアラビアにみられるイスラムの政治的伝統における政治的・宗教的批判をめぐる差異や両者にある制約を論じる。最終章では、サルマン・ラシュディによる小説『悪魔の詩』に取り込まれた政治的文脈を読み解き、この小説が読者たるイギリスのリベラルな中産階級の期待の地平に沿う語りとしてあることが明らかにされる。
ディスカッションでは、本書で用いられた「権力」や「リベラル」などの用語の意味の検討が行われたほか、本書のキリスト教の系譜を辿る手つきが、結果的にキリスト教的世界の歴史を、その他の地域の歴史とは分断されたものとして描いてしまっているとする指摘や、線状的な時間によって構成される従来型の歴史概念を超えていないのではないかとする疑問が提示され、アサドが用いる社会人類学的方法の検討から、分析主体のアイデンティティーが問われる人類学の自/他をめぐる方法論にまで議論が及んだ。
(文責:内藤まりこ)