李英載『帝国日本の朝鮮映画』
RA研究員の李英載(イ・ヨンジェ)さんの著作『帝国日本の朝鮮映画』(現実文化研究)が刊行されました(韓国語タイトル『제국 일본의 조선영화-식민지말의 반도 : 협력의 심정, 제도, 논리』)。
以下、出版社による紹介文を記しておきます。
『帝国日本の朝鮮映画』は、植民地末に制作されたいわゆる「親日映画」を対象にし、韓国映画史及び韓国史の中で回避されてきた帝国日本と植民地朝鮮の文化主体の間で行った協力と決裂の過程を再構成している。この試みの目的は、今まで私たちのなかで生き残っている「植民地性」を明らかにするのである。著者は、当時の映画とそれをめぐって行った言説分析を通じて植民地の知識人男性たちの無意識を探索していく。そこで明らかになるのは、ある種の認識の操作である。すなわち、植民地性の脱皮は国家(帝国日本)をそのまま引き受けることによって達成できるという。満州事変、日中戦争、太平洋戦争という15年戦争の中、迫ってくる「国家」日本と向き合う植民地の脱男性化された主体は、(兵士になることで)戦争「協力」を通じて再男性化の契機を獲得し、高度国防国家のシステムから彼らがこれまで志してきた近代的合理性を発見した。
その中で映画は、競合と服従そして決裂を成立させる最適な媒体として浮上する。なぜなら、この近代的な表象媒体は、「国家」という強制的な均質空間を媒介することで植民性の脱皮を抽象できるようにしたからである。またこれは 植民地の男性主体にファシズムという近代の衝撃的な完成と対面させる魅惑の装置であった。まさにそのような理由で、効果の次元だけを強調する帝国の映画觀と植民地男性の欲望が投射された映画観は互いに背馳するしかなかった。帝国によって作られた「帝国映画館」は機会の地獄でもあったのだ。
植民地末期から1950年代の映画までを論じているこの本は、決して「韓国近代映画史」とはいえない。著者が試みた通国家的な映画史の叙述の狙いは、韓国映画史という枠組み自体を問うているからである。植民地と後期植民地との間にある連続性の究明は、断絶によって隠蔽されたもの、そのなかで利益を取ってきた階級的、性的な主体たちへの批判であるのだ。