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【報告】合同演習「終末(eschaton)」をめぐって

2008.05.02 小林康夫, └歴史哲学の起源, 森田團, 大竹弘二, 時代と無意識

4月23日、短期教育プログラム「歴史哲学の起源──エスカトロジーとコスモロジー」の第二回目が、小林康夫リーダー、森田團、大竹弘二両研究員の三人による合同演習というかたちで行なわれた。

まず小林リーダーが、村上春樹の小説における井戸の場面について触れることから演習は始まった。小林リーダーは昨年度末のハワイ・ニューヨークへの研究交流遠征に出発する際、空港の本屋で何とはなしに村上春樹の小説を手に取り、遠征のあいだ読んでいた。ニューヨーク大学でのワークショップで村上春樹を取り上げることになったのはそのためだという(このワークショップの詳細についてはガブラコヴァさんによる報告がある)。井戸は村上春樹の小説に頻繁に登場するが、ここで言及されていたのは彼の小説『ねじまき鳥クロニクル』における井戸だろう。ノモンハンの戦いののち、満州の砂漠で一か八かで井戸の中に飛び込んで、奇跡的に救出された中尉がいた。彼自身からその話を聞いた1984年の「僕」もまた成り行き上、「やれやれ」と呟きながら長いあいだ井戸の底に留まるはめになる。小林リーダーは両者が同じように星を眺めることに注目し、この星はイデーであると言う。そして、カントの『実践理性批判』の結び等に言及しながら、今日、井戸のなかに降りていくことによってしか哲学はできないのではないかと考えたと語った。

最後に小林リーダーは、ジャン=フランソワ・リオタールの死から丁度10年が経過したことに触れた。リオタールは『非人間的なもの』のなかで、「人類の終わり」が自分たちの思考の条件になっていると語っている。結局のところ、太陽は将来的に爆発を起こし、その寿命を終える。そうなれば地球に存在する生命体は絶滅する。その事実に直面しつつ、どのような思考の形態を準備しなければならないのか。小林リーダーはリオタールがそこから説き起こす技術論について語り、講義を終えた。

この「コスモロジーとエスカトロジー」の宇宙的なイントロダクションののち、森田さんが、西洋思想の文脈において星を見るということは、世界を「コスモス」として秩序づけられたものとして見る体験であること、そしてそれは基本的に世界を歴史的に眺める立場とは対立するものであると語り、議論を引き継いだ。前者の代表格がルネッサンスの占星術であり、それは遡れば初期ギリシアの思索者たちに至る。後者は旧約聖書のダニエル書からグノーシス、そしてルターに至るまで、ヘブライズムの黙示思想の伝統のうちに見いだすことができる。この世界は不完全なものであり、自分たちは異郷に投げ込まれた存在である。その認識から導きだされる思考の様態は、必然的に、来るべきこの世の終わり(eschaton)へ向けて組織される時間的なものとなる。森田さんはこの二つのコスモロジー的およびエスカトロジー的な思考の様態について、ルカーチやカッシーラー、そしてヴァールブルクといった思想家たちを引用しつつ、明快な説明をおこなった。

最後に大竹さんが、「終末」をめぐる対照的な思考モデルを、ヘルマン・コーヘンとフランツ・ローゼンツヴァイクという師弟関係にあるユダヤ思想家たちから引き出した。コーヘンのメシアニズムはカント歴史哲学と一神教との統合であり、終末は無限に隔たったところから人類の進歩を導く、それ自体としては到達不可能な統制的理念として位置づけられる。それに対して、第一次大戦期を境にヘーゲル主義から離脱し、シェリングから影響を受けながらローゼンツヴァイクが『贖いの星』で描いた終末論は、〈いま・ここ〉、直近の瞬間における未来の「先取り(Vorwegnahme)」として描写される。このように「終末」を内在的に捉える思考は、ローゼンツヴァイクの同時代人である、次回のテーマであるヴァルター・ベンヤミンとも共有されることになるだろう。
(文責:萩原直人)

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