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【報告】滅びのリズムと根源

2008.05.06 └歴史哲学の起源, 森田團, 時代と無意識

 2008年4月30日、「時代と無意識」セミナーでは、UTCP研究員・森田團さんによる発表「滅びのリズムと根源——ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学の一側面」が行われた。

 この発表は、ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』における、〈根源〉と〈リズム〉との連関、そして「神学的-政治的断章」における〈メシア的自然のリズム〉の概念から、歴史と自然が交叉するベンヤミンの歴史哲学におけるリズムの問題を解明する試みである。
 森田さんはまず時代の哲学への導入として、ハンス・ブルーメンブルク(1920-96)の著作『近代と正統性』(1966年)における時代概念を紹介する。〈時代 Epoche〉の語源であるギリシア語の「エポケー」は、ある運動の中断、そして停止・転回点を意味していた。エポック概念が、現在使われる「期間」という意味だけでなく、われわれが「エポック・メイキング」というときの、〈転換点〉としての二重の意味をもっていたこと——また占星術の用語においてエポックが「星座 Konstellation」を意味すること——は、ベンヤミンの歴史認識の理論にも関わる問題である。
 
 ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』(1925年脱稿・1928年出版)の「認識批判的序説」の冒頭部において、歴史認識を、意識を起点とする認識関係ではなく、最も普遍的なものとしての〈理念〉が姿をあらわす〈表現 Darstellung〉において実現されるという考えを提示している。しかし理念は表現のうちに直接あらわれるわけではなく、表現はまず個々の歴史的な〈現象〉に関わる。ベンヤミンは、そのような現象は、非歴史的な認識関係ではなく、歴史のうちに認識されなければならないと考えた。
 概念形成は歴史的でなければならないということ。しかし、ベンヤミンはたんに歴史的諸現象を分類するだけではなく、それによって普遍的な理念との関係が測られる、ひとつの〈形態 Gestalt〉としてもたらさなければ、歴史的認識は決して成立しないことを主張した。そしてその「形態」こそが、〈根源 Ursprung〉と呼ばれるものにほかならない。根源は起源ではなく、ひとつの時代を縮約した形態である。根源は発生ではなく、「生成と消滅から湧出するもの」であり、ある時代の始まりと終わりという時間的拡がりのなかで被る変容こそを意味するだろう。ベンヤミンは、そのような根源の形象を、「根源は生成の流れのうちに渦として存し、自らのリズムのうちに発生の素材を巻き込む」と形容している。根源の形態とは、流れる運動のなかで渦巻く形態として静止するものなのである。
 だが、ベンヤミンはなぜそこで「リズム Rhythmik」という語を用いたのか? ベンヤミンの用法においては、一般に使用される、規則的な反復としてのリズムという意味ではないだろう。森田さんは、その問題を、古典学者たちによる語源の遡行によって位置づける。古代ギリシアにおいて、「リュトモス rhuthmos」とは rheein という流れることを意味する語を語源にもつとされていたが、ヴェルナー・イェーガーやオイゲン・ペーターセンらは流れそのものではなく、むしろ流れの停止や形態化にその起源を見出していた。リズムとは、運動によって生じた停止した形態なのである。
 ベンヤミンが根源の概念のなかで標榜していた歴史認識とは、一連の事象を総合する「形態」を見出すことであった。つまり、リズムはたんに運動するものの停止した像であるだけでなく、ある振幅をもった運動全体を縮約するような特徴的な形態なのである。ベンヤミンはそれを「根源がもつリズムのうちに発生の素材を巻き込む」ということのうちに表現しているのだ。
 ペーターセンは、リズムの語源から派生する語には「流れる」という意味ではなく、ドイツ語の〈Zug〉という語によって徴付けられる、「筆遣い、性格の特徴、顔立ち、運動の特徴」といったような意味をもつことを詳細に検討した。ベンヤミンは、根源の学としての哲学的な歴史を形式——対立する極端なものの並列が、全体性としての理念の配置を現象させるような形式——として把握していた。その形式は、また積極的にリズムと読み替えることができるだろう。

 またリズムには、形態や形式として以上に、〈自然〉との関係において重要な意味を付与されている。「序説」では、根源的なものがもつリズムは、一方で原状回復、復元として、他方で未完成なものとして認識されねばならないということを提起している。また、その草稿において「すべて根源的なものは、啓示の未完結な回復である」と述べている。原状回復とは、自然が言語として啓示される、始原の出来事の反復を意味しており、リズム=形態は、自然との関係をも含んでいるのである。根源概念は、ただ歴史のみならず、自然的なものの反復、あるいは取り戻し(ハイデガー)にほかならない。
 リズムとは、自然と歴史の交叉点に位置する根源的な形態化作用ではないだろうか。おそらく、ベンヤミンは、そのよう問題を提起したルートヴィヒ・クラーゲスの『筆跡と性格』に見られるようなリズム概念を歴史哲学に導入し、変形したのであろう。

 それでは、根源に固有のリズム、自然と歴史を交叉させるようなリズムとはいかなるリズムなのか。その答えは、成立年代に諸説ある「神学的-政治的断章」に見出される。宗教的な原状回復には世俗的な原状回復が対応し、没落の永遠性に導く——この永遠に過ぎ去る世俗的なもののリズム、すなわちメシア的リズムとは幸福である——このきわめて驚くべき一節は、一体なにを意味しているのか。
 森田さんはここで、〈メシア的自然のリズム der Rhythmus der messianischen Natur〉という表現それ自体に注目する。メシアはここで、自然とリズムという、ふたつの異質なものに結合されている。メシアとは、すべての歴史的出来事を完成させるものであって、外部から歴史の終わりを措定するものである。したがって、メシアと自然が結合されるのは奇妙な事態である。そこでは歴史のエスカトロジーが否定され、現在とその過ぎ去りが問題になっている。ヤーコプ・タウベスは、ベンヤミンの一節を注釈しながら、自然はエスカトロジーのカテゴリーだという。自然のエスカトロジーに歴史が関わるときにのみ、歴史はメシア的なものと関わるのであり、その関係を産出するものがリズムである。
 メシア的自然のリズムは、根本的なパラドックスである。世俗的なものの原状回復は、つねに楽園が失われた後の世界を没落として回復するのであり、それを可能にするメシア的なもののリズムは、この意味で啓示の回復を阻害する。この事態を森田さんは、自らのうちに変調をきたすリズムと形容し、変調を来した反復による形象化における時間——という特殊な時間性において、ベンヤミンのメシア的なものを理解する可能性を提起した。

 エスカトロジーとコスモロジーの連繋をめぐる今期のプログラムは、森田さんの洞察に溢れた発表で、ベンヤミンのきわめて謎に満ちた一節が、問題の核心に据えられることとなった。この提起は今後の議論の密度ある拡がりを予告するものである。発表の深度に応じて報告も長くなったが、私(荒川徹)としては、リズムを過ぎ去りのなかの中断として把握し、「リズムとはエポケーであり、与えられたものであり、保留である」と変奏した、ジョルジョ・アガンベン『中味のない人間』(1970年)の一節によって線を引いておくに留めておこう。おそらくは時代の哲学も、われわれが音楽のリズムのなかにエポケーを見出すように、二重の方向に引っぱられた強度=緊張を響かせる出来事の経験によって、すみずみまで満たされなくてはならないのである。ベンヤミンのテクストにも散見される、芸術作品のリズム分析こそが、芸術の歴史哲学の実践となるだろう。これについては私も近々、セザンヌにおける筆触のリズムの問題から応答する予定である。
 
(報告:荒川徹)

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