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時の彩り(つれづれ、草) 032

2008.05.20 小林康夫

☆ 対話

先週はまずミュラー先生ご夫妻の講演会があった。

ドイツにおける公的学校における宗教教育という場でいかに宗教間対話を進めているか、という実践的なお話しで、日本とはまったくちがった制度で興味深かった。UTCPの研究員も含めて聴衆からの質問も活発だったが、わたしとしてはいつもセミナーで、発表への質問・コメントにもやっぱりランクというものがあるので、自分の連想を遊ばせているだけで「ないものねだり」をするような質問は論外だが、追加情報を得るというだけではなく、相手が立てた問題に自分もどう「対応」するかということを示さなければならない、と言っているので、みずから実践しなければならないプレッシャーがある。

そこでまあ、必死に考えるわけだが、ミュラー先生たちの立場は、あくまでもキリスト教の側からの「宗教間対話」だが、そこでいくらかはキリスト教者としてのみずからの立場を開くというか、他者を理解するという枠を超えてみずからの脆弱さをさらすというか、ともかく自分の立場を少しだけ危うくすることを引き受けることがないと本当の「対話」にはならないのでは?という問いを用意した。もちろん、こういう問いそのものがいくぶんかは相手の「立場」を崩そうとするもので、ある意味、失礼なニュアンスもあるのだが、しかしこういう身振りを通じてでなければ、ほんとうの「対話」がはじまらないことをわたしは経験的に知っている。

即興の下手な英語でその問いを組み立てながら、わたし自身には、一神教の特有の「絶対」――これが問題の根本なわけだが――はまだ、充分に「絶対」ではないのではないか、というロジックが見えたのがおもしろかった。そのときはそうは言わなかったが、マイスター・エックハルトのこととか考えていなかったわけではない。

ミュラーさんは、わたしの問いに、自分の信仰は「自分の道(my way)」、つまりほかの道とくらべてそれがよいとか絶対だとかいうのではなくて、「自分の道」なのだ、ということが確かめられたという経験を語ってくださった。「自分の道」がどうやって「絶対」に到るか、そこにはアポリアがあり、それこそがきっと重要なのだとわたしは思ったが、講演会はそこで終わった。

その後、構内のレストランで、大貫先生もごいっしょに、一応、佛教者として自己規定してみたわたしとのあいだでさらに「宗教間対話」は継続された。「罪」という観念をめぐって、あるいは日本におけるほとんどゲニウス・ローキのような場の神性について……駒場の夜もなかなかスリリング!

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