短期教育プログラム「歴史哲学の起源」スタート!
新しい短期教育プログラム「歴史哲学の起源―エスカトロジーとコスモロジー」が森田團・大竹弘二氏を中心に始まりました。趣旨説明文を掲載しておきます。
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短期教育プログラム
歴史哲学の起源――エスカトロジーとコスモロジー
(森田 團・大竹弘二・西山達也・磯 忍・金 杭)
「コスモス」は、初期ギリシアの思索者たちがこの語を用いて以来、あめつちの万物を、またその発生と崩壊と再生の編成秩序を意味していた。そこで生とはこの整えられた秩序のうちに位置付けられるべきものであった。それに対してヘブライズムの伝統における生は、根本的に時間に、それも終わりある時間にさらされるものと見なされる。時間の終わり・万物の終わり(エスカトン)において、生は自らの意味を完全にあらわにすることになるからだ。
これら二つの伝統におけるコスモロジーとエスカトロジーという観念の配合を通じて発生したのが、「歴史哲学」という近代特有の思考の体制である。両者の配合は、最終的に、ドイツ観念論以降、ディルタイを経てハイデガーおよびベンヤミンへと至る哲学において決定的な意味を受け取ることになる。そこでは「歴史的世界」(ディルタイ)や「歴史的コスモス」(ヨルク)といった言葉に明白にあらわれているように、本来コスモロジーのうちにあるべき概念が新たなかたちで歴史と再結合されている。つまり、ヘレニズムとヘブライズムの伝統が、コスモロジーとエスカトロジーという二つの観念に集約されつつ、再配合され、その関係が再構築されているのである。
コスモロジーとエスカトロジーの再配合――もしくは起源の反復――の諸相を検証することで、とりわけこのプログラムが取り組みたいのは、ヘーゲルによって新たに哲学に導入され、ディルタイ以降の哲学において決定的な役割を果たすことになる「生」の概念が、両者にいかに関わっているかという問いである。おそらく、生こそが両者の接続の仕方に応じて新たな了解可能性を帯びることになるのではないか。したがって、「生の形式としての哲学」(ルカーチ)が前提としているのは、コスモロジーとエスカトロジーとの連関をめぐる思考なのである。歴史哲学を両者の関係において読み直すのは、そこで生が独特なかたちで問題になるからにほかならない。
本教育プログラムでは、歴史哲学を潜在的に構成するこの二つの観念が、とりわけ十九世紀後半から二十世紀初頭にかけての歴史哲学においていかに接合されてきたのかを、一方で同時期における古代哲学の受容(アリストテレスから新プラトン派、グノーシスまで)を、他方で第二次世界大戦後における歴史哲学再考(批判)の試み――レーヴィット、ブルーメンベルク、タウベス、フーコー、アガンベン――を視野に入れながら、解明することを試みる。この作業を通じて、現代世界において喫緊の課題となっている「生」への問いを再把握し、それを問うことそのものの歴史的な諸条件を画定することを目指したい。