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UTCP連続セミナー "Thomas Metzinger with Stephan Schleim"

2008.03.10 吉田敬, 小口峰樹, 脳科学と倫理

 2月21日から29日の内、六日間(21、22、23、27、28、29)、トーマス・メッツィンガー教授 (マインツ大学) とシュテファン・シュライム氏 (ボン大学) を迎えて、脳神経倫理学に関するセミナー (UTCP連続セミナー "Thomas Metzinger with Stephan Schleim") が開催された。

このブログ記事では六日間にわたって行われたセミナーの様子を日別に報告していきたい。
なお,シュライム氏も自身のブログに今回のセミナーの感想を載せてくれた⇒こちら

【第1日目】2008年2月21日
 21日の第一回は、メッツィンガー教授による講演とそれについてのディスカッションが行われた。第一回の講演は、脳神経倫理学に関する全体的な見取り図を示すことが意図されており、第二回以降の講演や発表をその見取り図の中に位置づける配慮も見られた。

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 脳神経倫理学を説明するにあたって、メッツィンガー教授は、従来の「倫理学の神経科学」と「神経科学の倫理学」という区別にかわる、新たな概念的道具として、記述的脳神経倫理学(Descriptive Neuroethics)と規範的脳神経倫理学(Normative Neuroethics)の区別を導入された。記述的脳神経倫理学は、道徳的な行動に関する神経科学の知見を研究することを主眼としており、具体的な事例としては、反社会性人格障害などの人格障害、脳の部位の損傷が道徳行動に及ぼす影響、利他行動の進化などが挙げられる。規範的脳神経倫理学は、研究・技術上の発展によって、引き起こされる様々な行為が倫理的であるかどうかを研究することを課題とする。規範的脳神経倫理学が扱う事例としては、リタリンなどの薬物による、認知的エンハンスメント、動物倫理、マインドリーディングなどが挙げられる。

 更に、メッツィンガー教授は、もう一つの概念的道具として、記述的神経人間学(Descriptive Neuroanthropology)と規範的神経人間学(Normative Neuroanthropology)という区別を導入された。メッツィンガー教授の考えでは、神経科学の発展は我々の人間観を揺るがす効果があり、それについて人間学的に問い直す必要がある。これは日本に比べて、キリスト教の影響が強いドイツの現状を踏まえてのことであると思われる。神経科学の知見を踏まえて、人間とは何なのかを問うことが記述的神経人間学の課題である。これに対して、規範的神経人間学においては、神経科学の知見を踏まえた上で、人間とはどうあるべきなのかを問うことが主要な問題となる。

 以上のような二つの新しい概念的道具を提示することで、メッツィンガー教授は、脳神経倫理学に関する全体的な見取り図を示された。それに引き続くディスカッションでは、記述と規範の区別などが議論された。管見では、これまでの脳神経倫理学では、人間学的な問題があまり議論されておらず、神経科学に関する人間学的な検討の重要性を指摘された点で、メッツィンガー教授の考えは非常に興味深いものと思われる。しかし、それについては第四回の報告に譲ることとしたい。

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(報告: 吉田敬


【第2日目】2008年2月22日
 メッツィンガー教授、シュライム氏を迎えての連続セミナーは二日目を迎えた。午前10時より二時間半にわたって行なわれた本日の主たる講演は、Schleim氏の「Neuroscience of Normative Decision: Philosophical Investigation」であり、その講演に対してメッツィンガー教授が応答する形で講演(実質的にはシュライム氏の講演に対する「長いコメント」のような形をとった)をし、その後、参加者全員で議論をするという形で進められた。

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 シュライム氏の講演の主題は、倫理や道徳が脳科学によっていかに解明されうるか、といういわば、「道徳の脳科学」を中心テーマとするもので、このテーマに関する近年の科学的研究の成果をたどった後、その方法論的問題点、哲学的含意などを考察するものであった。
シュライム氏は、トロッコ問題を使ったGreeneの有名な実験や、道徳的判断をする脳の部位に関する脳損傷の研究などをまとめた後、それらの研究の問題点をいくつか挙げた。大雑把にまとめてしまえば、問題は、それらの実験や脳損傷に基づいた経験的研究が、一体何を研究しているのか、という点について様々な議論の余地と考察の必要性がある、ということである。

 次にシュライム氏は、被験者に4つの場面を写した写真を見せ、それらの場面のどれが道徳に関わる場面で、どれが道徳とは関係ない場面であるか、を判断させる心理学的実験を紹介した。(その際、氏は、聴講者に実験を体感させるべく、実際に聴講者に4枚の写真を見せて各々の判断を配布したアンケート用紙に記入させるという簡単なデモンストレーションを行なった。)その実験結果の伝えることは、何が道徳に関係することで何か道徳に関係しないことかという判断は、社会的かつ文化的な要因に非常に大きく影響されるということであった。もし、そうした社会的文化的要因が何が道徳的かという判断自体に大きく影響するのだとしたら、道徳的判断の脳科学の研究における実験計画自体にそれらの要因によるバイアスは避けられないことになる。つまり、我々は道徳的判断の脳科学を研究する前に、道徳的判断自体について、その社会的あるいは文化的要因に焦点を当てて、哲学的に(あるいは心理学的に)先行的に詰めておかねばならないことが山ほどあるわけである。
 
 結論として、シュライム氏の講演は、具体的研究の方法論や成果については様々な問題点が指摘されうるものの、道徳的判断の脳科学という研究分野は、比較的新しい研究分野であり、今後の動向を見守ることが必要であるという形に落ち着いた。

 それを受けてのメッツィンガー教授のコメントは、道徳的判断のあり方が、いかに社会的文化的影響を受けて様々に変化しうるかという点を中心にしたものであり、氏の主張を煎じ詰めれば、道徳の脳科学の経験的研究の現状は、哲学的に見れば非常に未熟な点が多く見られるが、だからこそ、そこに入って行き、その現状を整理して研究の導き手となるような優れた哲学者の力が必要とされている、ということであった。

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 両氏の講演を受けての議論は、道徳の脳科学の実際の展開にどのような混乱と困難があるのか、を中心テーマとして展開された。
 
 新しい科学的研究テーマの勃興に、研究内容や方法論の混乱や困難の噴出はつきものである。道徳の脳科学というと一見突拍子もないことのように聞こえる。しかし、実際に経験的研究は進んでいる。ただ、現状は、大きな混乱と困難の山積の状態である。哲学の仕事は、経験的研究の方法論を鵜呑みにし、さらには肩入れして、その解明を推奨し、結果を待つことでは決してない。しかし、道徳の脳科学などということ自体が間違っていると経験的研究を頭から批判したり無視することでもない。哲学者のしなければならない(そして哲学者にしかできない)仕事は、混乱と困難に満ちた道徳の脳科学という研究テーマの中に入って行き、その現状を交通整理し、導き手になることである。Schleim氏の講演とMetzinger氏のコメントが伝えたかった最も重要なのは、この点ではないかと思う。
(報告: 鈴木俊洋

【第3日目】2008年2月23日
 23日は、まずシュライム氏に最新の「マインドリーディング」研究に関するレクチャーを行っていただき、続いてそれに対するメッツィンガー教授による応答がなされた。ここで言うマインドリーディングとは、fMRI(機能的磁気共鳴画像)をはじめとする技術を用いて脳機能を画像化し、被験者の「心の状態」を読み取ろうという試みのことである。

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 シュライム氏はまず、脳内の血流を測定し画像化するというfMRIの原理を説明し、比較的単純な視覚的刺激は高い精度で脳状態に反映され、この対応関係があらかじめわかっていれば、被験者の「主観的知覚」を概ね「解読(decode)」あるいは推測することができることを示した。しかし氏は同時に、この技術の(原理的と言ってよい)限界をも指摘する。それは、第一にfMRIが測定する脳内の血流変化は実際の神経活動から数秒~数十秒程度遅れて生じるため時間的分解能が必ずしも優れていないこと、そしてデータの個人差が大きく画像と知覚体験の対応関係は基本的に一人一人異なっておりそのつど測定しなければならないこと、などである。

 しかし特に司法などの現場では、供述の真偽を脳から直接読み取りたいという需要が非常に大きく、上記のような技術的限界や「真偽」というものの存在論的地位(偽とは真なる思念を抑圧することなのか、それとも虚構を積極的に構成することなのか、といった)に関する巨大な問題が存在するにもかかわらず、合衆国などでは既に「虚偽検査」の商業化が始まりつつある。ここには、プライバシーや個人の尊厳といった近代社会の根本に関わる問題があり、国ごとに異なる法の在り方に即した慎重な議論が求められる。

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 こうした発表に対してメッツィンガー教授は主に、心の状態を「解読する(読む)」とはどういうことなのか、について哲学的な問いを提起した。それによれば、我々が「読む」ことができるのはあくまでも或る言語共同体の中で流通する志向的あるいは規約的な諸記号なのであって、脳の活動やそれを画像化したものは本来「読まれる」対象というステータスを持ってはいない。それらが意味するものを言語的に解釈することは可能かつ有意義なことではあるが、この解釈が常に何らかの社会的・歴史的な背景(コンテクスト)に依存しており、またあくまでもそこに向けてなされるものであるということを忘れてはならない。
(報告: 串田純一

【第4日目】2008年2月27日
 27日の第4回はメッツィンガー教授による講演が行われた。今回の講演は「文脈を拡張する:社会・文化的な含意と人間像」(“The Wider Context: Sociocultural Implications and the Image of Man”)と題され、「脳科学の発展はわれわれの人間観にどのような影響をもたらすのか」、「そうした影響に対して、われわれは哲学的・倫理的にどのように対応すべきか」といった議題が俎上にのせられた(前者は「記述的神経人間学」の問いであり、後者は「規範的神経人間学」の問いである。吉田さんによる第1日目の報告を参照)。これまでの講演がエンハンスメントやマインド・リーディングなど特定の問題へと焦点を合わせていたのに対し、今回は一歩退いた広角的な視野のもとで、脳科学一般がもたらす社会的・文化的影響が議論された。

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 メッツィンガー教授によれば、脳科学は、人間が他の動物と進化論的な連続性を有していると唱える進化論的人間観を「心」という領域へまで強力に推し進め、人格や意識など伝統的な哲学的諸概念を洗練あるいは刷新するために多大な貢献をもたらしている。その一方で、脳科学が示す知見は、人間が自然界のなかである特別な地位を占めていると唱える伝統的な人間観(特にキリスト教的なそれ)と真っ向から衝突するものであり、人間の尊厳を損なうとして様々な批判や摩擦を引き起こしつつある。

 脳科学によって人間観の変更が要請される具体例として、メッツィンガー教授は心の哲学における脳科学との連携を取り上げる。心の哲学における諸問題(志向性の問題、心身問題、現象的意識の問題)に対し、脳科学は経験的な制約を提示することによって議論の選択肢を限定し、それらを解決するための新たな概念装置を供給するという役目を担っている。脳科学と協働しつつ行われるこうした探求は、とりわけ、人格概念や自由概念といった人文学が伝統的にその足場を置いていた諸概念の価値を喪失させることへと繋がりかねない。たとえば、人格概念は実在世界のなかに対応物をもつものではなく、進化の産物としての脳によって相互に帰属されるようになった一種の錯覚にすぎないという可能性も指摘されている。

 以上のように、従来の人間観を揺るがしかねない重大な影響力を有するがゆえに、脳科学の研究成果を社会や文化のなかに取り込んでゆく際には、その過程で予想を越えた数多くの問題が発生することが懸念される。たとえば、脳科学全体が伝統的価値を攻撃するひとつの「イデオロギー」とみなされてしまうといった問題がそれである。メッツィンガー教授によれば、われわれはこうした懸念を乗り越えるために何より問題の「記述的次元」と「規範的次元」とを正しく区別しなければならない。そして、脳科学的知見に関する記述的な理解を基礎として、広範な討論によって規範的な枠組みを構築し、その枠組みにしたがった合理的な過程として脳科学的知見の社会的・文化的な統合を進めていくべきである。最後にメッツィンガー教授は、こうした統合が、当該の脳科学技術によって操作・実現される意識状態に対する価値評価(われわれは社会のなかにどのような意識状態が実現されるのを望むのか?)を行う「意識倫理(consciousness ethics)」によって補完される必要があると指摘する。

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 続く全体討論においては、規範的次元と記述的次元の区別に関する問題、社会的統合にかかわる具体的な手続きに関する問題、また、ドイツの状況と日本の状況の違いや、それぞれの社会において哲学者が果たすべき役割などが議論された。メッツィンガー教授が繰り返し指摘するように、以上のような脳科学的知見に関する社会的統合の過程において、その合理性を担保するためにわれわれ哲学者が「規範的議論の専門家」、「メタ的議論の専門家」として果たすべき役割はきわめて大きいと言えよう。
(報告: 小口峰樹

【第5日目】2008年2月28日
 2008年2月28日に開催された、第5回メッツィンガーカンファレンスについて報告する。今回はGraduate Conferenceということで、日本側からUTCP研究員3人の発表、それら発表に対するメッツィンガー教授からのコメント・質疑応答、その後、参加者全体での討論という形式であった。

 日本側からの発表としては、トップバッターとして串田純一さんが「The Function and Value of Pleasure -From neuroscience to traditional Japanese poesy-」、2番目として吉田敬さんが「Altruistic Behavior: Lessons from Neuroeconomics」、最後に鈴木俊洋さんが「Neuroscience and Philosophy of Expertise」といった題目でプレゼンテーションを行った。以下、発表の詳細を述べていく。

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 串田純一さんの発表は、Pleasure(喜び)が如何にして神経科学的な視点から論じられるのかについて、まずは具体的には報酬システムの議論を引き合いに出した。そして我々の「喜び」に対する理解の構成を述べ、その後、「喜びと記憶」について論じ、最後に「新しい喜び」について示唆し、そのプレゼンテーションを終えた。串田さんの発表で特に印象的だったのは、日本古来の和歌を解釈することで、それらの和歌と「喜び」とを関連付けて議論展開した点である。
 
 次に、吉田敬さんの発表は、神経経済学に関してのものであり、利他的行動の神経経済学を考える上で、経済的決断がどのように行われるのかについてfMRIの画像等を用いて議論を行った。吉田さんの発表で印象深かったのは、彼が結論で、「我々がどれほど強く経済的に相互依存関係を有したとしても、常に利他的行動を取るとは限らない」ことを示した点であった。(吉田さんのプレゼンテーションはこちら [PDF/2.69MB]

 最後に、鈴木俊洋さんの発表であるが、「神経科学と専門性の哲学」という題目の通り、応用倫理学の議題としての専門性、専門性の認知心理学、専門性のニューロイメージング研究、そして結論として、専門性の本能を論じ、プレゼンテーションを締めくくった。鈴木さんの発表で特に印象に残ったのは、人相認知と専門性の間における基礎的な構造を明らかにしようと試みたことであった。

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 3人の発表のあと、メッツィンガー教授からのコメント・質疑応答に入った。メッツィンガー教授は、まず発表者3人への全体的なコメントとして、発表の際に最初に自分の発表のゴール(目的)を明確に述べることを示唆した。その後、発表者各自への個別的な質問に移った。メッツィンガー教授は、串田さんに対しては、「喜び」の概念について、またauthentic pleasureについての質問を投げかけた。吉田さんに対しては、人間は社会的動物である側面はあるが、それだけでは経済活動は説明し切れないのではないかとの指摘がなされた。鈴木さんに対しては、倫理の専門性(専門家)について、どのように考えるかといった質問がなされた。

 メッツィンガー教授から、発表者各自へのコメント・質問の後、参加者全体でのディスカッションとなった。そこでは、神経経済学は現時点でどれくらい議論が進んでいるのか、社会認知心理学についてはどのように考えられているのか、等の質問が参加者から投げかけられ、熱い議論がなされた。

 第5回カンファレンスの全体的な印象としては、日本側3人の発表は総じて興味深いものであり、メッツィンガー教授とプレゼンター3氏との質疑応答には聴衆の1人として聞き入った議論が多数あった。また全体討論も、カンファレンスの回を重ねるごとに、議論の内容に深みを増していっているように感じた。そして同時に、「英語」を議論する道具として使えるまでに熟達させる必要性を強く感じたのは私だけではあるまい。最後に、日本側の発表者、串田・吉田・鈴木の各氏には労いを、そして有益なコメント・質問を頂いたメッツィンガー教授には感謝の意を述べたい。
(報告: 礒部太一)

【第6日目】2008年2月29日
 最終日となる29日の講演会は、3名の発表に続き、トーマス・メッツィンガー氏のコメントおよび全体討論、という構成である。発表・コメント・討論はもちろんすべて英語で行われた。

 まず、礒部太一さん(東京大学大学院総合文化研究科)は、「日本における神経倫理の展望」と題する発表を行った。礒部さんは、日本においてはいまだ神経倫理に関する商業レベルの出版物は存在しないということを挙げつつ、日本に固有の文脈に即した神経倫理の必要性を指摘した。次いで、日本の神経倫理の今後を考察するうえでは、生命倫理の日米間での比較が重要な手がかりとなると述べ、臓器移植ならびに医師と患者との関係のありようを事例に挙げながら、米国ではそれぞれ自己決定および自律性の原則が重視されるのに対し、日本においては家族の意思およびパターナリズムが重視されるということを示した。そして礒部さんは、この対比が神経倫理においてBMIやエンハンスメントに関して考察する際にも有効であると論じた。最後に、今後の課題となるのは、神経倫理にSTSやボトムアップ的手法の適用など、また日本における教育システムや脳神経科学の研究手法の固有性に関する吟味などである、と結論した。その後、自律性と自己決定の区別に関する概念的問題が議論となった。
 
 次に、 小口峰樹さん(UTCP若手研究員)は「究極のプライバシーが侵される? マインド・リーディング技術とプライバシー問題」と題して、いわゆるマインド・リーディングにまつわる問題に関して発表した。小口さんによれば、この技術には技術そのものに関する理論的問題と、プライバシーに関わる社会的影響の観点からの問題の二種類があるという。理論的問題としては、たとえば、心的状態の個別化に関わる概念的問題、素朴心理学的な概念の状況依存性、個人間の脳の相違、脳部位の領域特異性/領域普遍性の区別などが挙げられ、いずれもきわめて深刻な問題である。プライバシーの問題に関しては、小口さんは以下のように論じた。脳から得られるプライバシー情報の問題とは、脳という器官の固有性に由来するのではなく、実は脳をめぐる社会的・経済的状況によって生じるものにほかならない。とはいえ、それによって実際に脳情報が個人情報と同等の有用性をもつようになってしまう、という点に注意せねばならない。また、社会の中には、そうした流れを増大させようとする集団が存在していて何らかの利得を得ようとしているのであるから、単純化による誤用を防ぐ法的規制が必要であり、また市民の側には神経科学リテラシーが要請されることになる。 
 
 発表後、ただちにメッツィンガー氏から、どのような社会的グループがそうした脳情報の価値増大を画策しているのか? という問題が提起された。小口さんは、保険会社や、あるいはある種の教育産業や(日本に固有だと思われるが)ゲーム会社がその候補として挙げられる、と応答した。
 
 そして、三人目の発表者として、シュテファン・シュライム氏が「規範的判断の神経プロセス Neural processes of normative decisions」と題した発表を行った。これは、道徳的判断および法的判断といった規範的判断における神経プロセスに関する実験の概要と意義を解説したものである。この実験では、弁護士のような法曹専門家、そしてその対照群として法曹専門家ではない人々を被験者としている。ここでは、規範的判断にどの程度の時間がかかるのか、またどの程度の確信を抱いて判断を下しているのかを行動データとして計測するとともに、判断において活性化する脳部位を脳イメージング技術により計測した。結果としては、たとえば、中立的な判断を下す場合に比べて、法的判断や道徳的判断を下す場合の方が、情動に関与すると言われている扁桃体や海馬の活性化が低いことなどがわかった。そしてここから、シュライム氏は、これらの判断はカント的・理性的な種類の判断だと推測できるかもしれないと述べた。この発表に関してメッツィンガー氏は、こうした実験は、しばしば道徳と倫理との概念上区別されないままに遂行されており、被験者が両者の相違を認識しているか否かが重要な問題となる、ということを指摘した。

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 全体討論の場では、メッツィンガー氏によって、神経倫理の今後を考えるうえで興味深い次のような話題が提供された。まず、氏によれば、ドイツでの神経倫理の現状として、単に従来型の生命倫理に飽き飽きした人々が神経倫理をやり始める場合も多いという。その点では、神経倫理は、必ずしもそれに内在的関心をもつ人々によって研究されているわけではない、ということが問題になるかもしれない。しかし一方で、ドイツでの神経倫理研究にはキャリア・パスが存在していないため、かりに若い人材が内在的関心をもって研究していたとしても、結果的に米国に流出してしまうという問題もあるという。次に、神経倫理のような学際的分野をいったん始めようとすることは、リスクをとることにもなるし、そもそも哲学ではなくなってしまうのだが、そうしたことも必要である。なぜなら、新しい科学の揺籃期は一般にそういうものだからだというのである。

 こうした話はきわめて印象深かったため、出席者はみな、神経倫理という学問分野が今後たどる道筋にいろいろと思いを巡らすことになっただろう。このように神経倫理の展望に結びついたという意味で、連続公演全体を締めくくるにふさわしい話題が最終日に提供されたと思われる。
(報告: 植原亮

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