「哲学としての現代中国」 第7回報告
「哲学としての現代中国」第7回目の発表は、「〈子供を救え!〉の余韻:小説と責任/応答の可能性」と題し、Dennitza Gabrakova氏によって行われた。
ガブラコヴァ氏の発表は、魯迅「狂人日記」(1918)、大江健三郎「生け贄男は必要か」(1968)、島田雅彦『子供を救え!』(1995)における「子供を救え」という物語言説に注目したものであった。この三つのテクストの構図には、F・ジェームソンのいう「ユートピア的衝動」が組み込まれているという。ガブラコヴァ氏は、上記の構図を、バフチンのポリフォニーとカーニバルをめぐる理論を接合させながら分析した。
まず、三つのテクストにおいて、「子供を救え」という物語言説が、枠物語形式との関わりの中で配置されていることに注目している。とりわけ、魯迅と大江のテクストには、①「食人・狂人」というメタファがともに使われていること、②テクストの語り手と、枠物語の語り手との対応関係が、類似していること、③「食人」という行為自体が決定不可能な意味として宙づりになっていることなど、物語言説だけではなく、物語の構図自体に多くの共通点があると指摘した。そこに、バフチンが「ドストエフスキー」や「ラブレー」の分析で展開した「ポリフォニー」と「カーニバル」の概念を援用しながら、三つの作品の間の「応答の可能性」と「多声性」を見出しているのである。
バフチンの理論から、「テクスト」というものが、他のテクストとの関係に開かれていること、それがあらゆる応答関係のなかにのみ生じるものであることに着目したガブラコヴァ氏の発表は、興味深いものであった。ただ、三つのテクストが、異なる社会的・歴史的コンテクストで流通し、異なる言語によって書かれたものであったことを踏まえると、言語そのものが、無限反復の構図をもっているとはいえ、それぞれのテクストにおいて、言葉自身の位置の移動や、レベルの変更を伴うメタ性を持っていることを意識せざるをえない。すなわち、カーニバルの場における多様な言葉のやりとりを「対話」と呼んだとしても、それはまったく異なる環境に存在するまったく異なる「対話」である可能性があるのではないだろうか。はたして、三つのテクストにおける「子供を救え」の発話の位置は、どのように考えればよいだろうか。ガブラコヴァ氏の発表は、このような興味深い課題を投げかけられたものであった。
(報告:高榮蘭)