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時の彩り(つれづれ、草) 020

2008.01.29 小林康夫

☆  「私たちがそうしなければ、誰が大学において人文科学を必要とするのでしょうか?」

と激しい口調で語っていたのは、昨年3月にUTCPがお招きしたイラン・パペさんだった。

この講演を含む来日講演がまとまって本になるということで、PDの早尾さんからゲラを見てくれ、と言われていたのが、諸事重なって遅くなり、ようやく昨日の朝、電車のなかで眼を通したのだが、早尾さんも言っていたとおり、これほど深い内容を語ってくれていたのか、とあらためて胸が熱くなった。

人文科学、とりわけ哲学そして歴史の研究者のことについて、パペさんは言っていた――「私たちの役割とは毎日問うことです。問いを発することは、神聖な行為であり、誰もが同意しており、議論の余地はありません。これこそが大学というものの本分だと私は思います」。

そう、「毎日問うこと」――いや、単に「問う」というのではない、パペさんのケースで言えば、国家の圧倒的な自己正当化のナラティヴに対抗して、あらゆる圧力の下で、「問い」と、そこから出発してさらに、「橋をかけるナラティヴ」の実践を行いつつ、なのである。その学問の真正の《激しさ》をあらためて思い出す。

この本は3月には出版されるそうだ。ぜひ読んでいただきたい。


☆ dignity(山から山へ)

で、昨日。そのパペさんの同僚のフィロさんがハイファ大学からやって来た。

フィロさんはイスラエルのアラブ人しかもドルーズ派というマイノリティの出身。その講演の報告は別にアップされるだろうからそれを読んでいただくことにして、わたしとしては、講演前の歓談と後の食事の席を通じて、ドルーズ派というイスラームの小さな共同体に眼を開かされたことをここに記しておきたい。

なにしろ、ドルーズの宗教の核心は「哲学」なのだそうで、ネオ・プラトニズムからアリストテレス、プロティノス、いや、それどころか輪廻転生も教義に含まれるのだそうで、佛教の影響すらあるという話しにまずびっくり。これらがイスラームとどう適合するのかよくわからないが、核には神秘主義がありそう。

ドルーズ派というのは、いまではイスラエル、レバノン、シリア、ヨルダンなどに分断されてしまっているが、多くは、高い山の上に共同体をつくって生活しているらしい。遠い山と山のあいだで昔から「烽火」で連絡をとってきたそうで、あとの食事の席でその話になったら、フィロさん、1944年生まれだそうだが、その最後の!「烽火」を子どもの時代に見たんだ、と語ってくれた。

その話の一瞬に、わたしにもなにか遠い向こうの山に立ち昇る「烽火」が見えたような気がして、フィロさんという人が大切に抱えている「熱い火」のほんの一端に触れたように感じだが、このような未知の来訪者、その「他者」のなにかに触れるというのは、実は、わたしにとっては、「問い」を発することと同じなのだ。わたしはほんとうに、それもまた人文科学者の「神聖な行為」なのだと思い、そう思うからUTCPを「運営」しているのである。

フィロさんによれば、ドルーズの民は「dignityの民」なのだそうだ。そのせいでこの民が歴史上いかに多くの犠牲者を出すことになったか、という話をしてくれて、でもあなたたち日本人も「dignityの民」と思えるが・・・?と突っ込まれて、どうもあまり胸を張る気分ではなかったわたしは、「そう、早尾さんのようにね、・・・」と逃げてしまったが、・・・どうなんでしょうねえ?

フィロさんからはぜひハイファ大学にいらしてください、と言われている。講演を聞けば聞くほどいかに厳しい状況で「人文科学」を実践しているかがよくわかる。そのような場にこちらから出かけていって語る言葉をわれわれが持っているのかどうか、じっくり考えてみなくてはならないが、しかし早尾さんのおかげで、まさに山から山へと受け渡されるように続いたひと筋の「火」を絶やすわけにはいかない。どういう「対話」が可能か、考えてみたい。

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