時の彩り(つれづれ、草) 018
☆ パリ速報(ジュランヴィルさんとの対話)
青空が広がって、まるで春先のような強い風が吹いている。久しぶりのパリだが、いつものように街が微笑んでくれていると思うのは、もちろんわたしの勝手な自己満足。
昨夜は、原和之さんとともにジュランヴィルさんのお宅に招かれて奥さま手作りのおいしいジビエの料理をご馳走になった。かれの新刊の本については、9月のブログで紹介したはずだが、客が原さんとわたしだけだったこともあって、リラックスした雰囲気でかなり突っ込んだ対話ができてとても楽しく、かつ有意義だった。
なんといっても、前にも述べたがジュランヴィルさんがわたしと同世代で、ニーチェ、ハイデガー、デリダ、レヴィナス、おっとラカンを忘れてはならない……とほぼ同じ(ローゼンツヴァイクだけはわたしにとってはまだ未知だが)哲学の光景を生きてきて、いま、それを突き抜ける膨大な哲学的著作を書き続けている、ということに、そういう力業のできないわたしだが、同時代的な共感がある。かれは若いときに数学者を志したこともあったそうで、それも物理学志望だったわたしと似てるところもあるが、脱構築の時代を超えて、再度、数学的ともいえる哲学のシステムへと向かいつつあるようで、わたしは多少の揶揄もこめて本人に「いささかドン・キホーテ的」と言ってみたりもしたが、この「資本の時代」にまっすぐに向かい合おうとする「哲学」の姿勢には、感心してしまう。
もちろん、わたしはたぶん、かれのような数学的な方法よりは、むしろ根源的な詩のほうへ思考を発動させるのだと思うが、(そしてかれは数学もまた「詩」だと言うのだが)、そのような違いをフランクに話し合えたのは、まさにかれの言う「普遍的な対話」としての「哲学」の実践そのもので、-――原さんが証人だが――このリュクサンブールの一夜は、資本から無意識、歴史の終末論、さらには佛教に至る豊富なトポスを横断したなかなか哲学的な一夜であった。
ともかく、「時代と無意識」というわれわれのプログラムは、ジュランヴィルさん自身の現在のプロブレマティックそのもので、この問題の共有を確認できたことは、大きな収穫。いちど近いうちに東京にも来ていただいてじっくり討論したいと思う。
なお、当日は、フランスでは「王の日」。みんなでガレットを分けて食べて、「フェーヴ」と呼ぶ小さな「しるし」があたった人が「王」ということになって金の冠をかぶるのだが、その夜、「王」となったのは、原さんだった。