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【報告】UTCPイスラーム理解講座第2回 『イスラーム世界の創造』とその後

2007.11.23 羽田正, イスラーム理解講座

 11月22日(木)、副リーダーの羽田正教授を講演者として迎え、UTCPイスラーム理解講座第2回「『イスラーム世界の創造』とその後」が開催された。本講座において羽田教授は2005年に出版された御自身の著書『イスラーム世界の創造』を中心的な題材として、「世俗化」と「世界史」という二つの概念を焦点にイスラーム理解の枠組みを問い直しつつ、時代の要請に応える新たな歴史叙述の可能性を「共生の世界史」という形で提示された。

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 冒頭、羽田教授は「イスラーム世界」という概念の歴史的な構築性を指摘した上で、それがとりわけ日本の言説空間のなかで(歴史教科書や新聞報道などを通じて)イスラームに対する認知的な偏りを生みだしている現状を批判された。「イスラーム世界」という概念は、内実を明示的に問われることなく曖昧な形で流布することで、あたかもそうした名称に対応する何らかの「実体」が(地理的あるいは歴史的に)存在するかのような印象を与え、われわれの認知の枠組みに対して偏向を加えてきた。羽田教授は、「イスラーム世界」というこの曖昧な概念が疑問もなく一般に使用されてきた背景に、それがイスラーム教の特殊性を強調する言説と結びついてきたこと、および、歴史の叙述単位として実体化の役割を果たしてきたこと、という二重の機制を看て取り、それらを各々「世俗化」および「世界史」という概念のもとで分析された。

 近代に至って世俗化されたヨーロッパの人々は、自らを差異化するための「他者」としてイスラーム教を特殊視し、それを新しく構築した「イスラーム世界」という枠組へと嵌め込んだ。だが、近代ヨーロッパにおける「世俗化」の三つの意味(1.宗教的な超越性の失墜、2.政治権力による宗教の管理、3.宗教が果たす公的役割の限定)を鑑みるならば、イスラーム教は(2については誕生当初より、3については近代以降)「世俗的」であったと言いうる。この意味で、イスラーム教は他の宗教と比べ別段特殊なものではない。

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 また、高校の世界史教育では、歴史叙述の単位として「イスラーム世界」が1956年に登場し、その後も現在に至るまで継続して使用されている。これが問題であるのは、「イスラーム世界」によって指示される歴史的・地理的空間が(実際には実在しないにも関わらず)あたかも実在するかのような印象を生じさせるからである。われわれは「イスラーム世界」という叙述単位を放棄するだけではなく、それを生みだす歴史学の枠組みも同時に捨て去り、新たな世界史の構想へと着手すべきである。それは例えば、文化や国家を叙述単位とすることなく、人々や地域のつながりを強調することで共存や平和といった理念を実現する「共生の世界史」の可能性として望見されるだろう。

 以上のように、羽田教授の講義は現在の歴史叙述の在り方に対する「プロテスト」であるとともに、新たな歴史叙述の枠組みに関する「マニフェスト」でもあった。それはイスラーム理解という問題を通じてさらに歴史理解一般の可能性へと問いかける根源的なものであり、講義の後、触発されるように会場からは多くの質問が寄せられた。とりわけ、「中華世界」と「イスラーム世界」との類似性および差異性、イスラーム教における「超越性」の在り方と「世俗化」概念の適用可能性、「政治権力による宗教の管理」という世俗化の規定の妥当性、技術批判を中心とした「断罪」としての世界史の可能性、といった論点に関して議論が展開された。(文責・小口峰樹)

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