田中純『都市の詩学――場所の記憶と徴候』
事業推進担当者の田中純さんがこのほど、東京大学出版会から『都市の詩学――場所の記憶と徴候』を出版されました。
雑誌『10+1』に2004年から連載なさっていた仕事の集大成。総頁数430頁に及ぶ書物です。なかには「神経系イメージ学へ」という刺激的な章も入っています。現代の表象空間の詩学的な分析の書です。(小林康夫・記)
以下、「序」の抜粋です。
これは、都市経験の根底で働く潜在的構造としての、「都市の詩学」を主題とする書物である。
取り上げられる対象は、都市論、建築論、神話、詩、小説、自伝、随筆といったテクストから、絵画、写真、映画のイメージにまで及んでいる。地域や時代を限定せず、むしろ、異なる時代の異なる都市についての記録や分析を比較することによって、都市こそが可能にしてきた想像力の経験の根拠が問われてゆく。
それを「詩学」と呼ぶ理由は、詩法に通じる構造がそこに存在することに拠る(第3章)。地名や街路名は都市をおのずと言語的なテクストにしており、それは修辞学のトポス論や記憶術に結びつく。都市はまた、詩歌や芸能発生の現場でもあった(第5章)。そうした芸能のひとつである連歌の座に通じる集団的な遊戯が、現代都市の路上でも展開されていた(第11章)。回想のなかの幼年時代の都市は、圧縮や置換という無意識の「詩法」によって歪められ、その歪みを読み解く夢解釈を待っている(第1章)。----本書が名乗る「詩学」とは、都会的情感の漠然とした隠喩ではなく、都市経験が深く根ざすこうした関係性の論理を意味している。
それは大域的な空間構造ではない。都市の詩学にとって、はるかに重要なのは、局所的な「場所」の経験である(第9章)。さらに、その経験には、場所に蓄積された記憶と、場所が喚起する予感の両者がともに浸透している。場所の周縁には、現前する都市の不可視の閾を溢れ出た、過去の記憶と未来の徴候とが揺曳しているのである(第2章)。都市の詩学が対象とするのは、このような「場所の記憶と徴候」であり、それを「地霊(ゲニウス・ロキ)」と呼んでもよい。
地霊の所在とメカニズムを探るセンサーとなるのが、場所の記憶や徴候に敏感に反応する「徴候的知」(カルロ・ギンズブルグ)である。徴候的知の原型とは、森に分け入る狩人の知である。都市はそんな知を活性化し、その担い手たちにとってそこは、獲物の兆しに満ち、危険な気配でざわざわとした胸騒ぎを掻き立てる、野生の空間に変貌する(第10章)。コンクリート製の暗渠といった都市の最奥に、あらたな自然が発見される(第4 章)。都市論はそのとき、都市という森におけるナチュラリストの探索に似たものに近づく(第14章)。「博物誌」であると同時に「自然史」であるという「ナチュラル・ヒストリー」の両義性に倣い、そうした博物誌=自然史的都市論を「アーバン・ヒストリー」と呼ぶことにしよう。「都市史」とは区別して、「都市誌」という名が当てられようか。本書はそんな「都市誌」の森として編まれている。
目次
序
都市の詩学
第1章 都市の伝記 ——類型・類推・幼年時代
第2章 「メタ世界」としての都市 ——アルド・ロッシの言葉なき建築
補論1 忘却の詩学、類推の書法——アルド・ロッシの言葉なき建築(続)
第3章 青天白日覓亡市 ——小村雪岱『日本橋檜物町』
光・闇・黄昏
第4章 自然の無関心 ——畠山直哉「都市とその起源」
第5章 チマタのエロティシズム ——映画による夕占(ゆうけ)
神話と科学
第6章 生者と死者のトポロジー ——心の考古学(一)
第7章 アハスウェルスの顔 ——心の考古学(二)
補論2 「時のかたち」の形態学
第8章 装飾という群衆 ——神経系都市論の系譜
補論3 神経系イメージ学へ
第9章 都市のアニミズム ——カミの原風景
遊戯の規則
第10章 犬の街 ——境界の叙事詩、森山大道『新宿』
第11章 狩人たちの物語 ——連歌としての路上観察
第12章 都市という驚異の部屋——博物誌の知再考
景観の論理
第13章 無縁の根源 ——河原という魂の市庭(いちば)
第14章 方法の生態学 ——ダーウィン、ベンヤミン、宮本常一
結び——郷愁と予感
第15章 都市の詩学 ——萩原朔太郎のステレオ写真
註
跋——波打ち際の知
年表
書誌
図版一覧
索引
(2007年12月14日 田中 純・記)