中期教育プログラム「哲学としての現代中国」第2回報告
中期教育プログラム「哲学としての現代中国」第二回目の報告は、前回に引き続き「権力と儀礼」というテーマに沿った形で、若手研究員、井戸美里さんが「『田植草紙』―刻印された土地の記憶―」と題し発表された。
井戸さんは、大正末期に発見された、中世末の成立とみられる田植歌のテクスト『田植草紙』の作品分析を行い、これまで言及されることのなかった社会的コンテクストと作品との関係や作品に織り込まれた虚構性に着眼し、作品の新たな読みを提示した。
具体的には、『田植草紙』が発見された広島県郡大朝町枝宮という土地に着目し、その土地を支配した吉川氏との関係を、以下の三点から指摘した。①吉川氏伝来の「月次風俗図屏風」(東京国立博物館蔵)及び山口氏某家伝来の「四季耕作図屏風」(新潟県立歴史博物館蔵)が、吉川氏の本拠地大朝などで行われている「囃子田」を描いている可能性が高く、同じ土地から発見された『田植草紙』とも関係が深いと考えられる点、②『田植草紙』の詞章に武士的なものへの指向が強く見られる点、③『田植草紙』の特徴的詞章に、吉川氏の歴史的な歩みとの密接な関わりが想定できる点、である。
以上の分析から、従来京都周辺の作品と比較されることが多く、伝来した土地との関わりを論じられてこなかった『田植草紙』研究の現状に対し、中世における田植えの儀礼化とその記録化に関与する在地領主という支配者の存在を透かし見ることができることを提言した。
質疑応答では、まず、「土地の記憶」という言い方に対して、『田植草紙』に移動する人・物、外地の情報が散見することから、より開かれた形での土地支配をイメージすべきといった指摘がなされた。また、「四季耕作屏風」に囃子田の情景とともに描かれた「唐」の情景について、中国地方における権力のあり方として、外部である「京」や「坂東」とともに「唐」を取り込む形で自らの権力を基礎付けていた可能性について議論がなされた。さらに、オーラルなものがテクスト化される時点でなんらかの権力の関与なしにありえないこと、その一方で、例えば韓国などの田植歌には反権力的な側面も有り得ることから、実際の儀礼とテクスト化されたものとのズレという問題点が指摘されるなど、多方面から活発な議論が交わされた。
個人的には、美術史の方法論に則った絵画分析から出発し、文学作品の分析へと接続する読み解きの方向性・手つきが新鮮であった。また時間の都合上発言できなかったが、在地領主と作品との間をつなぐ存在、すなわち土地から土地へと物語を流通させる流浪する宗教者が介在していたのではないか、といったことも考えさせられた。(東京大学大学院 博士課程 宇野瑞木)