Blog / ブログ

 

時の彩り(つれづれ、草) 003

2007.09.18 小林康夫

 思考(〈時代〉を問う)

前々回(001)で触れた『未来』のための原稿はなんとか脱稿。短いものだが、一応のこととしてこれから1年間くらい考えていくテーマが見えたという個人的な収穫はあった。当面、UTCPの基軸セミナーとしては、「〈時代〉を問う」という方向で組織するつもり。

6月に上海のバンドでNY大の張旭東さんと打ち合わせをしたときには、「資本」という問題で共同研究を、という話になっていたのだが、そこに行く前に――実は当然、〈同じこと〉でもあるので――まず「時代」という歴史性そのものを少し究明しておきたい。中島隆博さんにそう言ったら、中国哲学にとっても〈時代〉は、かれが追っている〈統〉の問題にとっても決定的で、しかもきわめて難しい問題だ、と。もちろん、ヘーゲルはもとよりマルクス、ニーチェ、ハイデガー等々と西欧現代哲学にとっても根底的な、まさに「根底」!そのものの問題。同時に、われわれの「時代」が「時代」概念そのものを無効にするような方向に進みつつあるという直観。そうした多重多元的に錯綜した問題を、海外も含めて、多くの研究者とともに少しでも考えられたら、と願う。10月以降、Web上での「哲学の樹」も含めて、もう少しはっきりとした展開の方針を提示できると思う。
 
 
 報告(MからMへ)

MM.jpg

「時」というものは、つねに不思議な暗合に満ちていて、9月15日横浜美術館で開かれた森村泰昌さんとの「放課後」対談に出かけて行ったら、そこでのトピックはやはり「時代」だった。三島由紀夫の自決直前演説をフィーチャーした作品等の上映を受けて、ミシマという出来事がどのような「時代」の裂け目に対応しているかを、多くはそのときまだ生まれていなかった若い観客を前にして、語った。「時代」を語ると「熱く」なる。その「熱狂」と裏にある「孤独」と。その意味では、今回はじめて観た新作でレーニンを採り上げた映像が、釜が崎の労働者たちの圧倒的な存在感もあって、わたしには深い感銘を残した。しかし11年前の同美術館の森村展の主軸は「女優」だった。「擬・装置M」という「名」をつけたのはわたしだったが、世紀が回転して、Mはマリリンからミシマへと転換した。「時代」への問いの切迫において、森村さんもわたしも同じ斜面に危うく立っている、という感覚の共有。

Recent Entries


↑ページの先頭へ