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【報告】 一匹の猫と共に理性的であること―ドミニク・レステル講演「動物性と人間性」

2008.02.14 郷原佳以, セミナー・講演会

2月14日(木)、11時より、UTCP研修室にて、パリの高等師範学校(ENS)教授で、「動物」をめぐって多数の著作のあるユニークな動物行動学者、ドミニク・レステル氏の講演が行われた。

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さしあたり「動物行動学者」と述べたが、講演を伺ったいま、氏をこの呼称のもとに呼ぶことに些かの躊躇いを覚えずにはいられない。氏の問題関心は「動物行動学者」としてのそれを大きく上回るものであり、哲学、心理学、ロボット工学を中心としたコンピュータ工学、生態学、そして、これこそが氏のポジションを独特なものたらしめているように思われるのだが、「~学」と呼ばれることのない種々の職人的な知、あるいは日常的な情動、といったところまで及んでいる。実際、経歴を聞けば、哲学と心理学を修めて教授資格を取った後、フランスのコンピュータ会社BULLでエンジニアとして働き、その後、蟻の思考システム、自立型ロボット――「動物ロボット」――等々についての研究を行い、そして現在は、ENSに「動物行動-生態学(étho-écologie)」研究を導入して教鞭を執っているというのだから、さまざまな境界線を軽やかに乗り越えるその思考と実践のあり方がここからも浮かびあがってくるだろう。討論の時間に小林リーダーが用いた表現を借りるなら、氏は「アームチェア・スカラー」の対極にあって、「現場」でのフィールド・ワークを重視する学者だといえるだろうか。とはいえここで誤解をされては困るのだが、氏の学問形成は基本的に哲学によるものであり、今回の講演も、一言でまとめるならば、哲学的観点からの動物行動学批判、といったものであった。そして、おそらく参加者の誰もが痛感したことは、この批判が、「共生」の地平を追究し続けてきたUTCPにとってこれ以上ないほど適切な視点を提供してくれたということだ。「共生」への取り組みにある種の突破口を開いてくれたともいえるこの講演の論旨を、以下、簡単に要約しておこう。

レステル氏が長年取り組んでいる問いは、現代において、ひとはいかにして動物と、かつまた、テクノロジーの発達に伴って増殖しつつある、たまごっちやAIBOに代表される「動物化する機械」と共生することができるか、というものである。講演では、後者の問いはそれほど論及されず、「人間と動物との共生」に焦点が当てられたのだが、議論のところどころで、「動物化する機械」に対する氏の姿勢も垣間見られたように思う。

「動物との共生」を思考するにあたって氏が第一に批判の対象とするのは、存在論的な問いの立て方、すなわち、「動物とは何か」という問いの立て方である。それに代わって氏が提唱するのは、「動物は何ができるか」という問いである。「~とは何か」という本質規定を求める問いが長年にわたって哲学を支配してきたことは周知のとおりだが、哲学だけではない。レステル氏がかくして矛先を向けるのは、動物行動学の古典的な、とはいえ現在も大勢を占める考え方なのである。

そのような従来型の動物行動学を、氏は「現実主義的・デカルト的アプローチ」と名づける。このアプローチでは、動物は自分が属する種の持つ能力を持つ、と考えられる。種を遺伝子によって決定されたひとつのまとまりとして捉え、例外的な個体を認めないのである。これに対して氏は二つの反例を挙げる。ビデオゲームが得意なチンパンジーの例、そして、結び目作りにきわめて秀でたオランウータンの例。これらは、種の維持に関わる能力とは何の関係もない。いわば特殊能力だ。しかし、種としての視点から抜け落ちるこうした隠れた部分にこそ、目を向けていかなければならない。

このような視点から成る自身の動物行動学を、氏は「二重構築主義的アプローチ」と呼ぶ。「現実主義的アプローチ」がデカルトに範をとるとすれば、「構築主義」はジャンバッティスタ・ヴィーコに遡る。あらゆる主体(動物)は世界を創造的に解釈しつつ構築する、という考え方である。ではなぜ「二重」なのか。なぜなら、彼の動物行動学には、観察者が確固とした厚みをもって存在するからである。つまり、動物が自分の世界を構築するとすれば、それを観察する観察者も、動物と自分をめぐる世界を自分なりに構築する。観察者は、彼自身がその世界の一員となって、その世界に参画するのである。これは、「よき観察者は目に見えない観察者である」を原則として行動し、動物が観察者に影響されるのを避け、動物=自然を純粋なままに保とうとする(それ自体が幻想であるのだが)、ルソー、ビュフォン的な視点に立った「現実主義的アプローチ」との大きな相違である。「現実主義的アプローチ」では、動物の「行動」が調査され、「情報」が蓄積される。そこで「透明な」観察者に見えてくるのは、同じ行動を反復する小ロボットでしかない。要するに、デカルト的な動物機械である(言うまでもなく、これは「動物化する機械」とはまるで異なる)。一貫した科学を成立させるためには、人間と動物との混交や、観察中に起こったエピソード的な例外事例は排除しなければならない。

対して、「二重構築主義的アプローチ」においては、動物が観察者に影響を受けることは必ずしも避けるべきことではない。純粋状態の動物を求めることのないレステル氏の姿勢は柔軟だ。人間の出現によって動物が変化するとすれば、レステル氏の視線は、その変化のありように向けられる。「種」全体にとってはたんなる例外に見えるエピソード的事例も、排除すべきではない。特異な事例も十二分に構築主義的な世界に参画している。「二重構築主義的アプローチ」にとって重要なのは、「情報」ではなく「意味作用」(ユクスキュルが生物学に導入した概念)と「解釈」である。ここでは、動物は「状況に応じて」たえず世界を解釈し構成し続ける解釈者として捉えられる。こうした動物の能力を、レステル氏は経済学者アマルティア・センの「capability」(その場の環境・状況に応じた能力)やドゥルーズの「agencement」(アレンジメント)といった概念を通して指し示す。

以上からわかるように、レステル氏が提示するのは、「動物」の、あるいは「動物性」の新たなヴィジョンである。氏は動物を、ときに「種」から逃れることができる、それぞれが特異な一匹一匹(一羽、一頭……)として、かつまた、人間から切り離された観察対象ではなく、共に世界を構築する相手として思考し直し、接し直し、かくして「人間と動物のハイブリッドな共同体」を目指すことを提唱するのである。それは、人間と動物のあいだに「意味、利害関心、そして情動の分有」がなされる共同体である。そしてしかし、新たなヴィジョンが提起されたのは「動物」だけではない。この共同体においては、「合理性(rationalité)」概念の更新もまた求められるのだという。というのもここでは、「種」を異にする者同士のあいだでいかにして理性的であるか、という問いが突きつけられるからだ。一羽の鸚鵡と、一羽の鴉と、一匹の猫と「共に理性的であること」。それは、動物との「交渉」のなかで、「関係性」のなかで、「経験」するものとしての「合理性」である。このように、氏の講演は、「動物性」を新たなパラダイムに移行させることで「共生」の新たな地平を切り拓こう、という呼びかけのようにも聞こえた。

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講演後の討論では、UTCPではこれまで人間同士の「共生」についてさまざまに考えてきたが、「人間と動物とのハイブリッドな共生」はまさに「異質なものの共存」のモデルとなるだろう、ということが参加者のあいだで確認された。とはいえ、その後、「特異なものの科学」は果たして可能なのか、といった質問が出されたことからも窺えるように、レステル氏の立論は、現実的にはいくつもの矛盾や困難を孕んでいるようにも思われる。そもそも、議論の中心にあった観察者の位置という問題が文化人類学においてすでに論争の種となって久しいことを想起するだけでも――動物行動学と文化人類学の関係性もまた一考を要するが――、科学的言説と特異な情動といったものを和解させる方途は容易には想像しがたいというのが正直なところであった――これは筆者がいまだデカルト的思考から抜け出せないでいるがゆえなのだろう。講演後の昼食時には、ガブラコワさんを通して「植物」の問題にも話題が及んだのは収穫であった。「植物との共生」、これもいまきわめてアクチュアルな問題だ。

なお、同日18時より、日仏会館にて、「デリダの猫」という魅力的な表題のもとに、再びレステル氏の講演が行われた。これは、デリダの遺著『動物ゆえにわれあり〔と仮に訳しておくが、原題は一義的な訳を許さない〕(L’animal que donc je suis)』に描かれたデリダと彼の猫をめぐる大変印象的なエピソードを読み解く試みであった。デリダはお風呂に入るとき、自分の猫に裸を見られてしまい、恥ずかしいと感じる。と同時に、猫に見られて恥ずかしがっている自分をまた恥ずかしいと思う。その自分をまた恥ずかしいと思う(このエピソードについて、日本語で読める最上のものとして、鵜飼哲「〈裸〉の師」『思想』2005年1月号をお薦めする)。レステル氏は「recursivity」(再帰性)という数学の概念を援用しつつ、「恥ずかしさ」が連鎖するこの私的空間こそ人間と動物の関係性を考え直す特権的空間だと論じる。この講演は筆者にとって、昼間の講演で提示された「二重構築主義的アプローチ」の非常によい具体例となった。とはいえそれがデリダのテクストにおいてであるというところで、やはりこの実践は余人の追随を許すものではないのでは――文学は別として――という思いを完全に拭い去ることはできなかったのだが。

(文責:郷原佳以)

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