破急風光帖

 

★  日日行行  (140)

2018.03.15

* 「確定申告」という「儀式」を終えると、やっと2017年が完全に終ったという気になりますね。コトバには比較的強いが、数字には滅法弱いわたしにとっては、毎年、苦行です。

 今週は、ある財団の評議員会の前に、森美術館に「レアンドロ・エルリッヒ」展を観に行きました。じつは、昨年の春、レアンドロさんと偶然、遭遇して、いっしょにお食事したりしたこともあるのに、11月からはじまったこの展覧会を観に行けませんでした。ずっと気になっていて、ようやく4月1日までの会期ですからぎりぎりですが、駆けつけられました。なるほど、新しい時代だなあ、と不思議にさわやかな感覚。根底の仕掛けは、たとえば「鏡」というきわめて単純な、まさにバロック的なものなのですが、それが現代には三次元、いや四次元的展開をする。勝手に、これは、ネオ・バロックだよね、となんとなく笑ってしまいました。若い観客も、まるで遊園地のように、スマホをかざしてはしゃいでいるし、なるほどなあ、と。おもしろかったです。
 雑事は多いのですが、その合間に、パリで買い込んできた十数冊の本を走り読みしています。わたしの感覚では、「知」の最前線ということでいえば、わが国はまったく遅れていると思いますね。自然科学的知見と人文科学的知見の「融合」という場所に立つものがあまりにも少なすぎる。人文科学系の人たちは、自然科学がもたらしたこの数十年間のラディカルな世界観の革命にまったくついて行けなくて、あいかわらず1世紀前の「文学」「哲学」を繰り返しているだけ。ホーキング博士が亡くなりましたが、かれの科学が人間の世界観をどれほど変えたかを正当に評価できなくて、「哲学」なんてもうできるわけないのに・・・そう、昨日、思いついた言葉だけど、「量子哲学」philosophie quantique というのを考えなくては、と真剣に思いますね。もちろん、自分の不能力は棚にあげてのことですが。
 レアンドロさんも、展覧会に設置されたヴィデオのなかで、この20年間で、人間の世界構築の仕方がどれほど劇的に変貌したかを語っていました。かれのアートはそれに対応しようとするもの。そのとき、きっと、かれのように人間の身体スケールを大きく超えるインスタレーションのほうに行く軸と、もうひとつ、「無限小」のほうに行く軸とふたつあると思うのですが、わたし自身は「無限小」の方向しかないね。
 もうひとつ、新しいテーマを思いつきましたが、これは秘密にしておこう。
 昨夜は、わずかな時間でしたが、表象文化論大学院の第一期生であった、現在、NY在住の高橋幸世さんとも久しぶりにお会いして、お話しをしました。南仏のケイコ・クルディさんや、パリの石井リーサ明理さん、それに高橋さんと、表象の「教え子」たちと旧交を温めなおすことができて、これは、駒場へのほんとうの「別れの春」にふさわしいのかもしれません。
 なお、来週、岩波の『思想』に、この1月に苦しんで書いていた論文が載ります。「美のトポス」を問う論考シリーズで、わたしは田中純さんに続く第二走者。走路を走るよりは、渡されたバトンを考えてみるという変則ゲーム。いやあ、論文書くのには向いてませんね、精神が。(次回、論文ではないほうのテクストのご案内ができると思います、謎? そう、謎なのです)。


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