破急風光帖

 

★  日日行行(238)

2019.04.29

* 街はもうツツジが咲き乱れ、すっかり5月の気配。しかし、昨日からやって来ている標高1100メートルの山は、カラマツの冬木立がうっすらと淡い緑の下地を刷毛で一撫でした感覚。でも、その緑が、一晩でわずかに濃くなっているのが見てとれる。春が大地から吹き上がってくる。春は大地の季節。足元の枯れ草の蔭に菫の小さな紫がのぞいています。その「presque rien」(ほとんど無)の可憐に共感の微笑みを。

 「平成」という時代ももう終わりますね。個人的には、わたしが社会のなかでなした仕事が多少なりともあるとすれば、そのほとんどは「平成」のあいだに行ったもの。戦後の「昭和」に育ち、「平成」で————まさに「presque rien」だけど、しかもそんなに「可憐」でもないけど————「菫」のように咲いて、「令和」の時代に消えて行くのでしょう。
 週刊「読書人」から「平成の3冊」をあげて欲しいというアンケートに答えて短い文章を書きました。2週間前に発売されています。わたしが「平成」について述べた唯一の公的なコメントなので、ここに再録させてもらおうかな。熟考なしに即興5分で書いた文章ですけど。(舳先に立って、両腕を十字架のように広げているイメージが頭に浮かんだということなんですけれどね)。

     *      *      *

 奇妙に明るく軽く、しかしいくつものカタストロフィーが刻み込まれていないわけではない不思議な時代であったということになるだろうか。このままでは確実に「氷河」にぶつかるとわかっているのに、ホールでは人々がにぎやかに踊っている「タイタニック」号のように。97年のセリーヌ・ディオンのあの歌こそ、「平成」の主題歌でもあったか。
 わたし自身の仕事の上で「平成」に遭遇したと言えるのは、『知の技法』(東京大学出版会)だろう。自分の著作ではないし、諸般の事情でたまたま(共)編集することになった「ガイド・ブック」にすぎない。驚いたことに、それがベストセラーになった(累計46万部とか!)。本来的な仕事ではない仕事で、多少有名になった。単著も十数冊も書いているのに、そちらは読んでくれる人は皆無。この微妙な捩れ感覚に、わたしにとっての「平成」という時代が象徴されていると言ってもいい。
 タイタニックのせいか、「海」のイメージがつきまとう。それが2011年の大津波のおそろしい破壊の光景と重なる。その意味で「海辺」の時代でもあったか。だからもう1冊は村上春樹の『海辺のカフカ』(2002年)にしようか。時代の底に「戦争」の「海辺」!
 もう1冊?———「もう1冊」はない。無数の本が浮かぶが、どれも決定的ではない。ならば少しひねくれて、「平成」こそ、人文科学ないし「哲学」に対して、数理科学的な「知」から、われわれの世界が人間の理解力を超えたものである証拠をつぎつぎと突きつけられた時代であったとすれば、いっぱい名前が浮かぶが、比較的最近の衝撃を取り上げておけば、マックス・テグマーク『数学的な宇宙———究極の実在の姿を求めて』(谷本真幸・訳、講談社,2016年)かな。」



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