破急風光帖

 

★  日日行行(174)

2018.09.05

*あっという間に9月。暴風が吹き荒れました。こちらはこの間、ソウル原稿を書き、続いて雑誌「未来」の連載原稿を書き、さらにはプライベート領域でも大きなオペレーションがあったりと、息つく余裕はなし。今日の午後、どうにか太田省吾さんの「水の駅」(1981年)を取り上げた「未来」の原稿をほぼ書きあげたので、多少落ち着きました。

 この間に気がついたことがあって、前回ブログを訂正です。中川幸夫さんとわたしのツーショットの写真があると書きました。宮本隆司さんが撮ってくれた、と書いたのですが、サインをよく見ると違っていて、これは写真家の安斎重男さんの写真でしたね。宮本さんからいただいたデリダとのツーショットやリオタールとのツーショットといっしょだったので、てっきり宮本さんの写真と思っていました。
 でも、この中川さんのケースのように、もちろん歳ということもあるのでしょうが、自分が論じて書いている対象と自分自身が、人生において、わずかにせよ、接点をもったということが増えてきています。太田省吾さんの場合もそう。かれが京都造形芸術大学で教えるようになったときの最初のシンポジウムでお会いして以降、新国立劇場にかれの演劇を観に行ったりしました。スパイラルホールで行われたお葬式にも行った記憶があります。
 結局、「日本戦後文化論1970−1995」と銘打っていても、それは三人称的な対象ではなく、あくまでもわたしという内部観測者から見たもの。今回も、太田省吾さんを論じるのに、83年に野田英樹さんの芝居台本についてわたしが語っている発言を引用したりしてしまいました。どうしても同じ時代を生きていた自分自身の影みたいなものに出会ってしまいます。
 でも、そうなると、ずいぶんといろいろな人に出会う好運にめぐまれたわが生であったと、つくづくありがたいなあ、と思いますね。国内ばかりではなく、海外も含めて、ほんとうに素晴らしい才能の人々に出会えました。人というもののおそろしさ、そしてはげしさ、うつくしさ。わたし自身は虚弱ですけど、出会いにはめぐまれていました。
 でも、その点に関してだけは欲張りだから、もっと会いたいな、人間というものの不気味な不思議をもっと見届けたいな。そこにこそ、わたし自身に残された課題がありますね。


↑ページの先頭へ