破急風光帖

 

★  日日行行(486)

2021.09.12

* 出てきたのです、わたしの修士論文が!今朝のことでした。必要があって本箱のなかを片付けていたら、なんと、昨年以来、あんなに大騒ぎをしていた、わが修論本体が見つかったのです!これについては、いろいろな人にご迷惑をおかけし、本ブログでも417(1月21日)、432(3月12日)などで言及しているのですが、見つかった!驚きです。

 前のブログには、間違って「20万字」とか書いてましたがちがいますね「10万に少し足らない」くらいです。わたしが印刷屋の父親に特製でつくってもらった原稿用紙で238頁。なつかしい。わが「存在の冒険」のマニフェストではありました。

 コピーではなかなか通読できなかったのですが、このように冊子になると読みたくなりますね。そして読むと、あちこちで、「そうだよな、俺はこう言うよな」と思ったりします。いわゆる「研究」のスタンスではなく、ボードレールという巨大な詩の世界をなんとか自分の言葉で言い切ってしまおうという過激な性急さ。ほとんど半世紀前の文章だけど、「わたし以外の何者でもない」という思考のスタイルははっきり打ち出されています。ということには、ここには、わたしという「存在」のなにかが刻印されているということですね。

 だって、その最後のフレーズは、わざわざ「・・・」とふって、「・・・・存在への愛、それは決して救済も、幸福も、希望も約束しはしない。だが、それでも、この愛には詩人の心を〈満ち足ら〉せるだけのものがあるのであり、またそれがなければ、詩人というひび割れた鐘は、〈鳴り響くシンバルに過ぎない〉のである。この愛こそが、乏しき時代における、まさにただひとつの地上の愛 charitéなのであり、そしてそれこそが、ボードレールのすべての詩が湛えているあの限りない〈優しさ〉の源なのである。苦悩Douleur と優しさDouceur と、ーーーーこうして、ボードレールの詩は、〈人間〉というものの紛れもない痕跡であり、その存在の絶えざる〈傷〉の光を発し続けているのである」。
 修士論文の最後に、この言葉を、自分の責任において引き受け断言できる! よし、Bravo!  71歳の康夫は、いま、このとき25歳の晴夫(このときはまだ正式に改名していなかったのです)に、そう言ってあげられますね。(逆に、晴夫君は、いまの康夫になんと言うかしらね?)


↑ページの先頭へ