破急風光帖

 

★  日日行行(180)

2018.10.01

* 颱風が接近するなか、昨日の午後、神保町の東方学会本部の会議室で、昨年末に亡くなった文化人類学者の渡辺公三さんをしのぶ会が開かれました。

 言叢社から公三さんの論文集「身体・歴史・人類学」の第3巻『批判的人類学のために』が刊行されたのにあわせた会でした。文化人類学者や出版関係者や教え子たちなど30名あまりが集まりました。公三さんの思い出を全員がひとりづつ語るという趣向。わたしは、なぜかトップバッターに指名され、1977年にわたしがはじめてパリを訪れたときに、ジャン・ジョレス・アベニュー4番地のかれのアパルトマンがわたしにとってのパリの扉となり、かれは、わたしにとっての「パリのコンシエルジュ」だったと思い出を語らさせてもらいました。

 公三さんの娘さんの舞さんもいらしていて、お話しできたのがなつかしく、嬉しかったなあ。舞さんは、わたしの娘と同じ歳、ちょうど最近、偶然に、昔、3歳くらいのころ、いっしょに軽井沢で花火をしている写真をみつけたところでした。公三さん、ご自宅で、舞さんの腕のなかで亡くなったとうかがって、泣けました。

 お葬式にも立命館大学主催のお別れ会にも行けなかったので、ようやくかれへの追悼の思いを言葉にできて、少しだけ心が静まったか。

 しかしあらためて、わたし自身にとっては、あの日、ソウル、アンカレッジを経由して、オルリー空港に着陸し、そこからメトロに乗って、ジャン・ジョレス街に辿り着いた、そう、生まれてはじめてパリに到着したあの日こそ、いまだにわが人生の最大の出来事であったと、そして、そのときのパリとは、階下のパン屋さんの香りが螺旋階段に立ち籠めるあの公三さんのアパルトマンだったんだよなあ、と思い出します。記憶力が乏しいわたしが、その日のことだけは、どんな些細なディテールも覚えている。

 1968年、同じ年に東大に入学して、分野は違うけど、ともに構造主義、ポスト構造主義というフランスの知を学び、そしてとりわけそのなかでも「身体」という問題を考えてきた、専門領域は重ならないけど、ずっと接点をもちつつ、並行的に走ってきたおたがいの知の軌跡のことも思います。まさに同時代を、そして同じ(あの時代の)パリという街を生きた友人であり、同志であったと思います。トラックはちがうんだけど、ああ、きみもそうやって走ってるんだなあ、と思える離れた同走者、明かしえない連帯のような。ブランショとキニャールの合成だけど、la solidarité inavouable、悪くはないね、この言葉。そう、一昨日は、キニャールの小説のタイトルla solidarité mystérieuse について、ある人にこのSolidarité という言葉は「孤独」Solitudeという言葉と韻を踏んでいるんだよ、と語っていたことを思い出しました。わが「孤独」も、そのようにあれかし!


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