★ 日日行行 (690)
(1)
すでに秋なのか、いまだ秋ではないのか。
いつものことだが、夏の終わりという〈刻(とき)〉はわたしの心を突き刺す、あるいは切りさく。
「そうして、夏の終わり、書き出せない原稿のことを考えながら、ぼくは無花果を買って帰るだろう。プラスティックの函に詰められて、黒紫色の大きな無花果が五つで五五〇円。柔らかな果肉を損なわないように、それをできるかぎり薄い刃で縦に切りさく。わが苦悩のように薄い刃ーーそう言っておこう。すると、その澄んだ赤紫色の果肉、その光の繊維ーーああ、ぼくはまるで〈神〉の存在を切りさいたかのように感じるのだ」(「無花果、夏の終わり」in 『思考の天球』)
三十数年前に書いた自分の文章を思い出す。そう、こんなテクストを書いてしまったからなのか、いまも今朝そうしたように、黒紫色の無花果は縦に切って食べる。すると、「まるで〈神〉の存在を切りさいたかのように感じる」。
いったいあの時といまと何が変わっているのだろう。だが、いまなら、わたしは手にしたナイフについて「わが苦悩のように薄い刃」とは言わないかもしれない、言えないかもしれない。あの時、「わが苦悩」!この言葉がわたしのペン先からぽとりと落ちた。そしてそれが、なんと「〈神〉の存在」という恐ろしい言葉を引き寄せたのだった。
とすると、いまなら、わたしが言えるのは「わが疲労のように、使い古して刃こぼれし少しひん曲がったナイフ」なのか、だが、はたしてそれで「〈神〉の存在」など切りさくことができるのか。
まるで血が滲み出てくるような赤紫色の果肉、その記憶の硬直した繊維ーー途端に、黒紫色の果物はわたしという〈苦〉の実存となるのかもしれなかった。
秋は来ない。まだ透明な光は落ちて来ない。
まだ残り続ける狂ったような猛暑のなか、朝のテーブルで、一個の無花果を静かに縦に切りさいて、わたしはその果肉を口に放りこむ。
