破急風光帖

 

★  日日行行(676)

2024.10.07

* 突然、なんの脈絡もなく、記憶の底なしの底から、詩の2行が浮かびあがります。

   ああ麗はしい距離 
   つねに遠のいてゆく風景

  「距離」には「デスタンス」とふりがあったけれど、わたしには「ディスタンス」。吉田一穂の詩ですね。タイトルは「母」で、このあとに「悲しみの彼方、母への / 捜り打つ夜半の再弱音(ピアニツシモ)」と続くのでしたが、浮かんだときには、後半2行は随いて来てはいなくて、ただ、遠い記憶の彼方から、その「麗しいディスタンス」を越えて戻ってくる言葉がある、そんなことを考えていたのでした。
 「麗しいdistance」、これです。『麗しい」という形容詞、その漢字とdistanceの組み合わせ。そこに「麗しさ」があります。
 わたしは「母」のことを考えていたわけではないのですが、原文をチェックしてみたら、この「海の聖母」は大正15年(1926年)11月の刊行。じつは、それは、今月98歳になるわが母の生まれた年なんですね。やはり「母へのピアニッシモ」なのか!と思ったりもします。
 それはともかく、わたしには、このように言葉が、麗しいディスタンスを超えて、それこそ「再弱音(ピアニッシモ)」で回帰してくるということに心動かされます。
 じつは、「詩」の出来事とは、そこにあるのではないか、と。
 
 で、今年の2月から「週刊 読書人」で「百人一瞬」の連載をさせていただいています(すでに今週は35回目かな)が、それもまた、「麗しいディスタンス」に捧げられているわけなので、それこそ、「老い」というものの特権かもしれないと思い至ります。つまり、ディスタンスが麗しくなることこそが「老い」なのだ、と反転するわけです。
 ならば、このブログでそういう「つねに遠のいていく」詩句を、一瞬、引き寄せてシャッターをおすのもありかもしれませんね。
 そんなシリーズを夢見るように考えると、わたしの頭はすぐにタイトルに考えが行く。
すると、この「日日行行」に続けて、あるいはそれにならって、「留留吾吾」という言葉が浮かんでくる。

 日日行行、留留吾吾

 もちろん、これはアポリネールの詩「ミラボー橋の下」Sous le pont Mirabeau(1912年)のルフラン 「日々は過ぎ行き わたしはとどまる」 Les jours s'en vont, je demeure を踏まえています。そうですね、わたしはいつも、レオ・フェレ作曲のこの詩を口ずさんでますね。
 l'amour s'en va comme la vie est lente, Et comme l'Espérance est violente, Vienne la nuit sonne l'heure, les jours s'en vont je demeure
 ああ、夜よ来い、刻(とき)よ鳴れ 日々は過ぎ行き わたしはとどまる

 (この稿を、「留留吾吾」第1回としようかな?)
 

 


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