★ 日日行行(603)
* 昨日は国立劇場に文楽を観に行きました。「心中天網島」、いい劇でした。とりわけ、病気の咲太夫さんに変わって登場した織太夫さん、三味線の燕三さんによる「大和屋の段」、蜆川を背景に開かない戸を懸命にあけて「死」へと赴く二人、そこに、二人の心を超えた運命のドラマ(「網」なのですが・・・天網かどうかはわかりませんが)が凝縮して立ち昇り、さすが近松門左衛門!と唸りました。
じつは、これを観ながら、かつてパリで文楽興行のためにパンフレットに文章書いたことを思い出しました。あれは、たしか「曾根崎心中」だったなあ、と。自宅に帰って探してみたら、ありました。1997年、いまから四半世紀前でした。Festival d'automne そして「フランスにおける日本年」の一環でしたね。
フランス人に向けて文楽を解説するテクストですが、歴史的なことにはいっさい触れず、
「文楽の人形には頭と手足しかない。というのも、着物の下、胴体はないからだ。心(臓)は一個の無である。まさにその無をこそ主遣いの左手が埋めようとする。その手が頭を支え、眼を、眉を、口をコントロールする。その無を通して、人形は、内側から、演じられるのだ。つまり、人形は、舞台で、ただ模倣的な演技を行っているのではなく、みずからの内部の固有の生によって生気づけられなければならないということだ。
他のすべての演劇とは異なって、そこでは生を表現するのではなく、まずなによりも、生をとらえ、それを受肉し、あるいは人形に受肉させるのでなければならない。実際、太夫はただ口をきかない人形にかわって語っているのではない。同様に、三味線もただ歌や語りの伴奏をしているわけではない。逆に、すべては三味線とともにはじまる。その撥こそが、すべての出来事の空間を開くのだ・・・・」とはじまるYasuo 節でした。
70年代には毎回のように東京公演に通っていたとはいえ、無謀な語り口ですね。ペレペン、ペレペン、ペレペレペレ、ペポン,ペペンペンポ・・・ですかね?いずれすべては「見果てぬ夢と消え果てたり」・・・・