★ 日日行行(538)
* 昨日は、駒場の東大・生産研で「工学とリベラルアーツ」の研究会。いまこそ、「工学のリベラルアーツ」が必要だと、去年わたしが行ったアジテーションに応えて生産研の先生方が行ってくださっている研究会。来年度からの駒場Ⅰでの実際の開講を目指して、という方向性を受けて、わたし自身も(即席で考えてみた)14回分のカリキュラムの構想を発表したりしました。
基本は、「道具/機械/都市/宇宙船」という四つのブロックで工学の歴史を振り返りつつ、人類がまさに工学的存在であること、そしてそこには「存在の責任」があるということを、すべての若い知性に自覚させることを目指すものでした。リベラルアーツということになるとラディカルになるわたしですので、昨日も過激な「アジテーション」になりました。
そのプランを考えているときに、書棚から手にとったのが、1997年に刊行した拙著『建築のポエティクス』(彰国社)。それは、まさに、「建築のリベラルアーツ」であったと、ひとり勝手に合点が行きました。駒場に行く電車のなかで、四半世紀ぶりにパラパラと自分が書いたものを読んでいたら、イタリアのコモにある、テラーニのカサ・デル・ファッショ(あのときの旅を思い出します!)の建築についてのテクストの冒頭、「もっと根源的に病いと治療のあいだには本質的な差異がない」と語っているのに(われながら)ちょっと感動しました。わたしはそのテクストで、テラーニの枠構造のうちに、極限的な合理主義が反転的に転回する「行き詰まり」を読もうとしていました。これは、まさに、いま進行中のウクライナ戦争のある種の「本質」でもあるよな、と勝手に納得。もちろん、そのことは研究会では触れませんでしたが、建築という工学の作品を前にして、そのように「読む」というプラクシスこそ、まさに、リベラルアーツなんだ、そうだ、やっぱりわたしは、いつもそれを、それだけをやってきたんだ、と妙に納得しました。まあ、そのことを、わたし自身は、「ポエジー」と呼んでいたわけですけどね。
しかし、昨夜、帰宅してからも、その本のなかにおさめられている、ダニエル・リベスキンドとわたしの対話を読み返しながら、いまのわたしには、こういう「突っ込み」はもうできないかもねえ、と。自分で四半世紀前の自分自身に対して(全然「自画自賛」ということではないんですけど・・・)「線という一言でダニエルに迫っていくそのパフォーマンス、やりますねえ、ブラボー」と言いたくなりました。それを可能にしてるのが、リベラルアーツというものなんだけどなあ・・・