破急風光帖

 

★  日日行行(521)

2021.12.31

* 2021年最後の日、夕方、夕焼けはなくて、まるで水墨画のように、薄明の地にいくつかの黒雲が乱れ流れていく西の空をながめながら、ぼんやり今年のいろいろなことを思います。ともかく、世界は大きく変化しているその急激なカーヴの(いったいまだはじめのほうなのか、それともまんなななのか?)曲率にこちらの精神がついていけなくて放り出されるような感じもありましたね。

 一昨日の夜に、代麻理子さんの「未来に残す授業」で「存在とは何か」の第2回を行いました。わたしとしては楽しく対話できたのですが、観てくれている方々になにかを届けられたのか、よくわからないけれど、わたしにとっては、この第1回の「授業」以来、「存在」という言葉に、どうしてももう一度、向かいあってみなくてはならないと思うようになりました。続けられるのかどうかはわかりませんが、「存在とは何か』について、他の哲学者の本の解説をするのではなく、完全に、わたし自身の思考で何が言えるのか、チャレンジしてみなくては、という思いから、無謀なエクリチュールをはじめてみたりしています。
 来年、なにか少しでも、まとまったテクストが出来るといいのですが・・・
 でも、そのときいちばん、大きな問いは、やはり「歴史」ですね。2021年、これも、世界的な次元で人間の「歴史」がよりカオスへと突き進んでいることが、とてもよく感じられた年ではなかったでしょうか?この「カオス」に対して、ただなんらかの「理想的秩序」を対置するという「態度」をわたしはこれまでとってこなかったのですが、しかし「カオス」をどう超えていくのか、そこにどのように「創発」のきっかけを仕掛けるのか、個人の実存レベルでも人類の変容のレベルでも、問いは深いですね。まあ、無力なのですが、その「無力」のなかになにか「希望」があるはずだというのが、わたしの「希望の詩学」(4日前に配本になった拙著『存在の冒険』の最後のテクスト、22歳のときに書いたものです)だったわけなので・・・なんとその最後には、びっくりですが、般若心経の最後の真言が書きつけてありましたね。「彼岸に行けるものよ!」という。カオスのなかにこそ、「彼岸に行く」その「行く」がある!とか言ってみようかな。
 
 みなさま、いい年となりますように。
 このブログを読んでくださっているあなたに、わたしの感謝をお届けします。

(と書いて目を上げたら、いまや、ほとんどまっくらになった遠い空の、わたしの真っ正面に、あれは明星なのか、明るい星がひとつ、瞬いていました。その星が「とびこんできた」などとはもちろん言いませんが、その瞬く「光」、遠く、しかし近い「光」に、わたしの希望を託します!)


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