破急風光帖

 

★  日日行行(509)

2021.11.13

* 昨日は、京都日帰り往復でした。なんと西本願寺の「宗門教学会議」という格式の高い会議に、有識者の一人として招かれて、じつは、オンライン参加の予定だったのですが、わたしの判断で対面参加に切り替えて、浄土真宗本覚寺派の伝道本部会議室に赴きました。

 行ってみたら、会衆のみなさんは、全員袈裟をつけた僧侶ばかり。わたしはスーツだけどネクタイもせず、青いマフラーを首に巻いただけ。いや、こんな会議ははじめてのことでした。
 最近、2000年に心魂傾けて書いた、わたし個人にとっては決定的であった論文「祈りのコロナ」(『光の解読』岩波書店、所収)の続きを書かなければと思っていたところで、この機会に、「祈り」という地平において宗教的なものをディコンストラクションしようとしたわたしのその思考を再考しようと思っていたのでした。が、打ち合わせのときに、「祈り」という言葉は、真宗においては、あるいは本願寺派においては使わない言葉だと聞いて、どうしようか、ととても迷ったのでしたが、いや、それでもわたしはわたしの思考における「祈りの地平」を語ろうと決意。しかしそれならば、聴衆には受け入れ難いことかもしれないので、そうである以上、Zoomによるスクリーン越しに語るのではなく、やはりわが身をその場に曝して語るべきだと思い直して、京都に行くことにしたのでした。
 となった以上は、こちらも覚悟をきめて、「祈り」と「信」についてのわたしのその思考からはじめて、その後のわたしなりの佛教の問い直しの過程を語り、さらには、われわれは、親鸞の時代とは異なる「末法」を生きているという前提に立って、いま、宗教的なものの地平をどのようにディコンストラクトするか、というわたし流のファンタジーを語らせてもらいました。
 ある意味、とても過激だったと思いますが、そのような過激こそ、わがなすべきこととも思えて、わたしなりには納得しました。この1週間ほど、親鸞関係の資料を読んだり、浄土三部経を読んでみたりといろいろ勉強しましたが、不意打ちのようなこの機会を得て、わたしの思考の切っ先を少しは研ぐことができたようにも思います。20年にわたって停滞していた思考をふたたび取り戻すいいチャンスでもありました。

 3時間にわたる会議のあとは、ちょうどオープニングの日だったので、森ユウ・ギャラリーのわが友人・黒田アキの展覧会を見に行きました。Underground というタイトル。来日して日本で描いた新作のSelf-potrait のシリーズ中心。明日にはパリに帰るというアキさんとも話ができました。とても中身の濃い半日の京都滞在でした。
 


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