破急風光帖

 

★  日日行行(501)

2021.10.19

* (つづき) その「パリにいる」ですが、実際は、とても小さなディテールに意味があったりするんです。たとえば、無花果。今回、パリに来て、八百屋さんに無花果が並んでいるのを見ると、ああ、間に合ったな、という気持ちになって、買ってくるわけです。日本のものとはまったく違う。いろいろな種類もある。その小さな紫の、ややつぶれたような無花果を口に運ぶと、『思考の天球』の冒頭のエッセイで書いたことがありますが、ベンヤミンがイビサ島についてだったか、「ここには17種類の無花果がある」と書いていたことを思いだして、ああ、わたしには無花果がベンヤミン(わが「歴史の天使」、そう、わがヴァルター)の思いを運んでくるなあ、と思ったりする。こういうことは、日本のあの気が抜けたような無花果では起こらない。そういうことが、「パリにいる」ということの意味、つまり「無意味の意味」なんです・・・・

 昨日は、また黒田アキさんとランチして、腰痛もあるというアキさんとそれでも、パレ・ロワイヤルからマビヨンへとセーヌを渡って散歩。かれもわたしと同じ日に(あちらは関空へですが)帰国するそうで、95年ですから、もう四半世紀前によく二人でお喋りしていたように、アートのことやら、時代のことやら、会話するのが楽しかったです。カルーゼル橋を渡ってルーブルからリュードセーヌへ。ラ・パレットはいっぱいで列ができていたので、別のカフェの歩道テラスでエクスプレスを飲みながら、パリ・ラビリンスについてなど・・・これも「無意味の意味」ですね。
 そうやって「わたし」という「無意味の意味」を花開かせる・・・ポン・ヌフ橋の下、セーヌは流れる・・・et nos amours, faut-il qu'il m'en souvienne, oui, la joie venait toujours, oui toujours,
après la peine................


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