★ 日日行行(484)
* そして昨日、今度は、都立大学にまで出かけて行って特別講義。「The Futur of/with the Earth」という連続二日のプログラム。1時間目がドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんの講義(もちろん遠隔です)で、3時間目がわたしの講義。その二つを、これもUTCPの研究員だった西山雄二さんがモデレーターとしてつなぐという構成。ガブリエルさんがNew Enlightmentという方向性を打ち出したので、わたしがそれを受けて「連句連俳」という趣向。(講義は全面的に遠隔だったのですが、西山さんにも会いたいしと、出かけて行ったのでした)。
簡単に言えば、ガブリエルさんの「理性」的な啓蒙主義の刷新の構想に対して、そのような理性から下に下りる啓蒙の方向には逆立する、大地(地球)から上にのぼる感性論的前倫理の可能性を語るということかな。別な言い方をすれば、「地球とbeing withである」ことの存在論。これは、去年からのわたしの思考のベクトルなのですが、去年、「地球システム倫理学会」の学会の討論に参加させてもらったときに、閃いたという「光」(啓蒙ですね)のメタファーではなく語るなら、突然、下から湧き上がってきた「山路来てなにやらゆかしすみれ草」(芭蕉ですね)の一句ほかを再度取り上げて、「慎み」と「尊厳」のポエジーの世界を語ってみました。結構、スリリングで、わたしにはおもしろい。去年よりは、2歩も3歩も思考が深まった気がしますが、もちろん、全部を展開する時間はなく、受講生たちには、乱暴な幕切れだったかもしれません。
わたしはどうも、他者からの真摯な呼びかけがないと自分からはなにもしない怠惰なフィロゾファーなんですね。こういう機会をいただけて嬉しかったです。
(これは、余談ですが、前のブログに室伏鴻サンについて語ったことを書きましたね。ジャン=リュック・ナンシーさんの追悼文をいっしょに書こうということになったボヤン・マンチェフとメールを交換していて、そのことにちらと触れたら、今朝来たメールには、「じつは、われわれが土方巽に関心をいだくようになったのは、室伏鴻とカルロッタ池田によるものなんだ」と書いてあって、そうか、室伏さんとわたしを包み込んだ「同時代」はブルガリアまで広がっていたんだ、と感動しました。激しい、しかし「なにやらゆかし」・・・おーい、すみれよ!(そういえば、昔、「すみれの花咲くころ」の静岡県春野町で行われた「すみれ文芸賞」の審査員やったことがありましたね。わたし、昔からすみれ好きです。わたしは櫻ではなく、すみれ草、といつも思ってきましたから・・・誰も信じないかな?)