破急風光帖

 

★  日日行行(467)

2021.07.10

* 読書(4)。昨日のブログの影響ですね。今朝、目覚めてベッドから立ち上がったときに、たまたま目に入ってきた書棚の一冊の本を、1日かけて再読してしまいました。あらためて、いろいろなことを学びました。それは、いま、ある種「自己という迷宮」に迷っているわたしにひとつの示唆を与えてくれるものでした。感謝です。

 半透明のトレーシングパーパーの背後に、赤鮮やかに、パリのクリュニー美術館のあの「一角獣」のタピストリーの絵。そう、『薔薇の沈黙ーーリルケ論の試み」(辻邦生)でした。
 内容については語れません。ですので、本文最後の文章を引用しておきます、「〈薔薇空間〉となったリルケは甘美な陶酔の持続となって、時間を超え、生と死を超える。おそらくいまわれわれにとってなすべきことは、〈見る〉ことの果てに出現した〈対象(もの)としての世界〉を、いかにして〈薔薇空間〉へ変容するか、ということだろう。不毛と無感動と貨幣万能の現代世界のなかで、はたして至福に向かってのそんな転回が可能かどうか、われわれがある決意の時に立たされていることは事実だろう」。
 辻先生にとっては、このテクストは未完だったようで、まだ最終章を書く予定であったということです。だが、それを果さずに、99年の7月に先生は亡くなってしまいます。73歳でした。テクストの大部分は、1994年から1995年にかけて毎月連載されていたテクストでした。昔はそんなことを思わなかったのですが、わたしも自分の歳を意識するようになってきているので、ある種の共通性を感じないわけにはいきません(60代後半にあえて「ドゥイノの悲歌」を訳出なさっていた古井由吉さんも同じような感じがします)。なにか、どうしてもこのリルケの仕事には、真剣に向かいあっておかなければならない、みたいな。
 わたしは、数年間、非常勤講師として学習院で教えたことがあって、そのときに辻先生とはお会いしているのですが、1998年の12月に、わたしがモデレーターをしていた「ロレアル賞連続ワークショップ 色」の回に先生をお招きしてお話をうかがいました。そのとき、先生は、「運命の力に押し流されていくのが大部分の人間であるとすると、その中から、自分だけの生き方の持つフォルムの美しさというようなものを、死ぬまでの間に何らかの形で描き出していきたい。それは自分に加わるさまざまな力に対する反抗だと思うんですね」と語ってくれました。そう、ほとんど同じ歳になったいまのわたしにとって、この言葉こそ、わが格律!ですね。この一晩の機会、なんと貴重なものであったか!ほんの一瞬、しかし、いまだに、いや、いまだからこそ、この言葉が響きます。
 そのような思い出に包まれて、一冊の本を、ふたたび読むことができるという幸福。

 これ、美しい本ですね!この装丁は、筑摩書房の中島かほるさんによるものですが、同じく中島さんが、わたしの友人の辻けいさんの作品をもとに装丁してくださったのが、わたしの『光のオペラ』です。手前勝手なのですが、辻先生の『薔薇の沈黙』の横に、わが『光のオペラ』を並べて、遠い時代を思ったりもしました。少しセンチメンタルかな?
 


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