破急風光帖

 

★  日日行行(451)

2021.05.31

* 先週の土曜のことでしたが、「・・・この手が石を割り、その石で木を削り、その木が棒となり、その棒で叩き、耕し、戦った。この手が火を熾し、土を捏ね、形をあたえ、器をうみだした。
この手が草に水をそそぎ、糸をつむぎ、布を織りあげ、裸の〈からだ〉をやさしく包んだ。
 肌に触れるその触感、〈からだ〉に感じるその重さ、それは————いまわかる!———わたしが、そこに、あそこに、青く広がるわたしたちの地球と結びついて存在していた証しであったのだ。なんといとおしい!なんとなつかしい!・・・」などと、つい自分のテクストを読みあげてしまいました。
 これは、無印良品の40周年の記念ブックのために昨年書いた1頁あまりのテクストです。Muji(無印)という「ことば」に反応して1時間くらいで書いた即興のテクストだったのですが(すでに刊行されています、無印良品で売っているのかなあ?)、それを読みあげるというパフォーマンス。

 じつは、東京大学のEMPプログラムの講義で、基本的には、20世紀の大陸の哲学を「実存ー構造ーポスト構造」というレイヤーで概説的に追う内容だったのですが、社会人の受講生の方々に、フッサール、ハイデガーからはじまる哲学文献を解説するという道はとらずに、そういった流れの末端にいるいまのわたしがどう「哲学しようとするか」を、ひとつのスタイルとして見せたいという欲求が強くなって、つい、あえてジャズ風にやってみようと思ったら、こうなりました。
 21世紀、人類という「種(主)体」の運命を哲学は考えないわけにはいかない、というアピールだったのですが。
 でも、このパフォーマンスをやってみようと心を決めたその日の朝、定まったと思ったときに、今度は別のアイデアがふってくる。つまり、「変異」という問題を考えてみてはどうか?と。そうしたら、思考は暴走して、一方ではウィルス的な変異を、存在論に適用する、変異的存在論の可能性が浮かび、もう一方では、変異はまさに変奏だからと思いはバッハに跳び、それなら「シャコンヌ」かな、と暴走。いや、やはりわたしには、たとえささやかであっても舞台というか、現場が必要なんだよなあ、とあらためて思ったりしました。
 5月も終ります。が、このように結構、高揚した5月ではあったかもしれません。肝心の書く作業は少しも進行していないのですが・・・なにか、静かなのに激しい5月ではありました。


↑ページの先頭へ