破急風光帖

 

★  日日行行(445)

2021.05.13

* 「思へばこの身は先の世で、いかなる事の罪せしぞ。さてもさても味気なや、焦がれこがれたその人に逢ても知らぬ盲目の、この目はいかなる悪業ぞや」・・・と嘆くのは深雪。「生写朝顔話」の大井川の段。

 ほんとうに久しぶりでしたね。今日の午後、国立劇場小劇場に文楽を観に行きました。東大表象文化論の元教え子の方々に誘われて。昔、といっても70年代、わたしが20歳代のころは東京公演は欠かさず行っていたのでしたが、最近はとんと観に行かなくなっていました。太夫さんも三味線さんもその頃とはすっかり変わってしまっていますが、よかったな。身体が慣れるまでに少し時間がかかりましたが、「宿屋の段」の豊竹咲太夫、鶴澤燕三、情があふれて感動しましたね。「運命」に翻弄される人の存在、その情(こころ)。その劇(ドラマ)の切っ先。そこに「共感」するわたしの「情」(こころ)。どんどんどんと御簾の向こうから低く太鼓のリズムが聞えてきます。

 そういえば、昔、文楽のパリ公演に一文を寄せたこともあったなあ、と思いだし、自宅に帰ってすぐにそのパンフレットを探しました。なにを書いたかなんてすっかり忘れていたのでしたが、紙屑の山のなかからやっとのことで探し出したものを見ると、1997年の「フランスにおける日本年」の一環でパリのThéâtre de la ville での公演(10月)。演目は「曾根崎心中」。わたしのテクストのタイトルは、「le secret du partage dans le théâtre Bunraku」(文楽における分有の秘密)でした。専門家でもないのに、こんな文章もホイホイと書いていたんですね。でも、そこにもやはり「人生というものは、人間のあいだの愛と運命という残酷な必然性とが複雑に絡み合う一種の旅であるのだ」などと書いてありました。
 まさにそのとおり、今日の舞台も、深雪というひとりの女性が、「愛」のパッションに導かれて、宇治から明石へ、明石から島田へ、島田から大井川へと、必然的に運命の糸を手繰り寄せて旅する「劇」でありました。人生のエッセンスが凝縮したような舞台の流れ。流れていく水。夜の盲目。生きるということの途方もなく残酷な陶酔。なにか遠い昔の感覚が戻ってきたような感じでした。
 
 

 


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