★ 日日行行(442)
* 今日は雲も多く、風の強い日でしたが、昨夜の満月はきれいでしたね。夜、散歩しながら、なぜかとても感動しました。自分の生の歩みのなかに、ひとつの「時」が刻まれたみたいなね。特別なことは(表面上は)なにもないのですけれどね。
1週間前くらいに神保町の田村書店で、2ヶ月前に目をつけて、そのときは買わなかった本を買いました。ライナー=マリア・リルケのフランス語詩集です。Vergers(果樹園)とか、かれが最晩年に直接にフランス語で書いた詩がおさめられています。1949年発行のINSEL版全集の一冊です。
「今宵、わが心は、昔のことを思い出す天使たちを歌わせる、ほとんどわたしの声のようなひとつの声、あまりある沈黙に誘惑されたひとつの声、それが立ち昇り、そしてもう戻ってはこないぞ、と決意する・・・」と冒頭の詩ははじまります。
前回の当ブログを書いてから東大の本郷でEMPプログラムの講義をしたのでしたが、そのとき課題図書に指定していたのが『若い人のための10冊の本』でした。この本について質疑応答をしたのですが、そのときある方が、この本はわたしの「人生の最初の本」について語っているけれど、では、「先生の人生最後の本はどんなものであると考えますか、また望みますか?』と質問してきました。そのときは、本は、その度ごとにある意味では、偶然を頼みに引き寄せて読むものなので、はじめから「人生最後の本」と自分で決めるわけにはいかない、というような趣旨のお答えをしたのですが、数日たって、リルケのこの詩集をもって山に行ったら、この詩集がそれでもいいかなあとなんとなく納得しました。リルケというほんとうにオーセンティックな詩人(そういう人ってあんまりいないんですよ!)が最晩年(かれは51歳で亡くなっています!)に、外国語で書いた詩。そこにどこか、わたしは自分の人生を重ねるのかもしれませんね。ともかく、この詩集がわたしが人生で読む最後の本になったのなら、そんな幸せはないようにも思えます(もちろん、こういう詩集は読み終わるということはないので、わたしがいまこれを読んで「さよなら」という意味ではありませんよ、誤解なきよう)。
果樹園ではない、つまり果実などない、山の荒れた庭。
そこには「二度目の春」が来ないわけでもない。
いくらかの「詩」がないわけでもない。
Nul ne sait, combien ce qu'il refuse, /l'Invisible, nous domine, quand/notre vie à l'invisible ruse/cède, invisiblement