★ 日日行行(422)
* 昨日、マラルメ全集の月報が、わたしがマラルメに書いた唯一のテクストと言いましたが、たまたまそのテクストが出てきたので、(まあ、誰も関心がないでしょうけど)、記念にここに引用しておこうかしら。結局、ここで書かれているようなことも、取り組むことはできなかったのですが。
「わたし流の簡便な歴史のトポグラフィーにおいては、ヨーロッパのモデルニテの精神は、19世紀末にニーチェの《真昼》とマラルメの《真夜中》を結ぶ子午線を通過する。一言で言えば、ニヒリズムということになるが、一方は神経症、他方は精神病という違いはあるが、どちらもみずからの存在のもっとも深いところで、存在そのものから《無》へと突き抜けてしまった。重要なことは、この存在の解体的な突破が、あくまでも言語の活動を通じて引き起こされたということにある。すなわち、危機は言語の、言語による危機(つまり《詩の危機》)なのだ。
だが、当然ながら、ふたりの位相はまったく異なっている。拙速の過誤を怖れつつ、言語の危機は、ニーチェにおいては、《超人》であれ、そうでないのであれ、あくまでも(私ではない)誰かが話している事態なのに、マラルメの場合は、話すものは誰もいないとなる、と言っておこうか。より正確に言えば、後者においては、それでも「話すものは誰もいない」あるいは「さいわいなことに私は完全に死んでいた」と語る《私》はさいわいなことに生き延びており、それこそがマラルメが、苦悩なしにではなく、発見した「書くこと」、つまり驚くべきことに言語の本質としての「書くこと」であった。
「書くこと」は、なによりも《場所》の出来事である。話すものは誰もいないのに、にもかかわらず、あたかも《場所》が起こる。《あたかも》——しかし、それは、なんと《美しい》!この《美》こそが、存在の《夜》に《墓》のようにぽっかりと口をあけた《深淵》のうちに完全に没してしまうことからマラルメを救い出す。虚無に下降し、そこにみずから消えていこうとするその瞬間に、あたかも《鏡》の効果でもあるように、底なきそこに拡がるのはけっして《蒼穹》など知らぬ《夜空》、その極北に、もはや《意味》の《屑》であるような、しかしなんと香しい響き(——いっときは君もそれを《イデー》などと思いこんだこともあるような・・・)!、つまりは記号の《星座》が星の輝きで瞬く。
(エロディアードの不毛の肉体を「堀り進めて」いたら、私は幼児イジチュールになってしまった!)
こうして《誰でもないもの》の《墓》という驚くべき作品論かつ存在論が完成する。マラルメの記号学!——だが、奇妙なことにこれこそが、かれに19世紀末の燦然絢爛たるブルジョワ文化を読み解き、享楽することを可能にする。マラルメは《時代》の《ジャーナリスト》になり、その言語はそこで、資本主義の真理とも言うべき、虚無と快楽とが一致する《場》を繰り広げる。
「あらゆる思考は」——とマラルメは書く、「骰子一擲(un coup de des-tin)を発信する」と。それはけっして《偶然》を、つまりはロゴスあるいは意味の危機を廃棄することはない。老人は記号の骰子を投げる。すると老人の姿はどこにもなくて、ただ漆黒の白紙の上に散らばったシニフィアンの破片がかすかに微光を発する。それが星座のように、もっとも古い、しかし誰にも解読できないひとつの名を告げることになるだろう。
バロック!——そう、これはローマの香りが立ちこめるバロックの精神風景でもあろう。マラルメはヨーロッパ文化のもっとも深い底流に小さな骨壺のような器《yx》を差し入れて《永遠》という水なき水を汲み上げようとしたのだ。」
(この「老人」の姿、それが、いまの私です、と言ってみようかな)。