破急風光帖

 

★  日日行行(417)

2021.01.21

* ありました!昨年末大晦日のブログ(411)で、紛失したと述べた、わたしの修論。さすが、東京大学、比較文学比較文化研究室はちゃんと保存してくださっていて、それを、高山花子さんが複写して送ってくれました。今日、届きました。嬉しいです。ひとたび失われ、そして見いだされた「時」、わたしの出発点、「存在の冒険」へのマニフェストではありました。

「一人の詩人の作品のなかに、その詩人固有の仕方で問われている存在の意味への問いを見出すこと、そしてその問いを身をもって生きたその詩人の生の輪郭をデッサンすること、それが問題である」、「イマージュを通して、あるいは言葉そのものを通して、現代の詩は、常にその最先端、その最深部においては、存在に向かって問いを発し、存在を見詰めようとし、存在を生き、そして無言のうちにも「存在の冒険」を企て続けていたように思われる」、という序からはじまる20万字ほどの論文。研究論文というようなものではなく、まさにある種の哲学的クリティークのエクリチュール、いまと全然、変わっていません。ほとんど半世紀前ですよ!?ちらっと走り読みしながら、修士論文としてどう評価するときかれたら、その後、何十本という修論を審査してきた経験からすると当惑してしまいますが、そこにまったくいまのわたしに脈々とつながる「存在」が流れている、ということに関しては、疑いがありません。それは、わたしです。いまと変わらないわたしです。いや、この齢になって、わたしはいまその時代の「わたし」に回帰しようとしているのかもしれない、とすら思います。そんなことを確かめられただけでも、ありがたいことでした。
 そこから出発して、なんとかここまで「存在の冒険」を試みつづけてこれたこと(もちろん失敗ばかりですが)、amazing graceに感謝ですね。(たまたまその歌が流れてきたので!)
 (そういえば、一昨日、夜の散歩のときに、大事な三宅一生のショールを紛失したのですが、昨日、同じ道を歩いたら、ある建物の入口に置いてありました。失われたものが戻ってくる「時」なのでしょうか! ずいぶんたくさん失くしものをしたような気もしますが、わたしは記憶力がないので・・・・)。
 


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