破急風光帖

 

★  日日行行(396)

2020.10.10

* 昨夜は、六本木・森ビルのアカデミー・ヒルズの企画で、フィロゾフィカル・ダイアローグの第1回として、星野太さんと先日刊行の拙著『《人間》への過激な問いかけ』(煉獄のフランス現代哲学上)をひとつの軸にして2時間にわたる対話を行いました。星野さんとわたしは対面ですが、みなさんにはYouTubeで配信。200名を超える方が視聴してくださったようで、ありがとうございました。楽しかったです。話題はあちこちに跳びましたが、中心にあったのは、《人間》をどのようにとらえるか、ということでした。しかし、それには、わたしが意識できる次元とわたしには意識ができない次元(たとえば遺伝子でもいいのですが)があるわけで、わたしとしてはそのようなわたしが意識できない、わたしには現象しない、しかし「わたし」なるものをどのように「わたし」がつきあうのか、という「態度」の問題を語ろうとしたのですが、さあ、どう伝わりましたでしょうか。

 最近では、日本学術会議の問題や東大の総長選挙の問題など、アカデミックな体制における「決定」の問題が注目を集めています。わたしは、このブログも含めて、政治的なコミットメントに直結するような意見表明というのをあまりしない「態度」、つまり「知識人」というポジションを取らない「態度」をとっているのですが、「理由」raisonあるいは「根拠」(それが法であれ、慣習であれ)を示さないで「(政治的)決定」が行われる。そしてその「理由」らしきものがつねに「ずらされ」ていくといういかにも村落共同体的支配が跋扈することには危機感をもちますね。決定のプロセスや根拠が誰にもわかるような仕方で明示されるということは、少なくとも民主主義にとっては本質的な基盤です。しかし今世紀に入って、世界のあちこちで、「理由(根拠)の明示」が尊重されなくなってきています。そして、感情、つまりルサンチマンの次元に根づいた「判断」が実践を主導する。・・・・そこには、なにか重要な哲学的な課題がありそうです。

Screen%20Shot%202020-10-09%20at%208.22.25%20PM.png
 



↑ページの先頭へ