破急風光帖

 

★  日日行行(382)

2020.07.23

*「「肉体の叫びと存在の寡黙な声、思考の《不能力》と《偶然》を最後まで廃棄し得ない《不死の言葉》のポエジィ、アルトーの生とマラルメの死・・・これらは、おそらくは同じ《場処》を取り囲んでいるのだし、そしてその垂直的な同じ火が、記号、存在、肉体、世界を、常に新たに、しかも常に同じように、焼き続けているのである」ーーここに書かれた「垂直的な火」という言葉にうたれますね。すでに「火」なんだ!この「はじめ」においてすでに!と。

 引用したのはわたし自身の文章なのですが、なんと1975年に書いたもの。まだ25歳。修士論文執筆中でした。掲載されたのは、雑誌『エピステーメ』の創刊号「記号+レクチュール」の特集号でした。そこに「イマージュ 記号とその影」というわたしのテクストが載っているわけです。
 わたしのスタート・ラインですね。今夏、わたしと「フランス現代哲学」との遭遇をトレースする本をつくろうとしていて、このような若書きを読み返したりしているのですが、やっぱりはじめから思考のスタイルはかわらないなあ、と。
 先日、ある人に言ったように、「進歩」ってないんですね、存在にとっては。
 で、400頁もあるこの創刊号をぱらぱら見ていたのですが、その冒頭におかれていたのが、豊崎光一先生の訳ですが、ミシェル・ビュトールの「七面体 向日葵」。アンドレ・ブルトンについてのエッセイです。昨日は、まるではじめて読むかのように(そうなのかもしれませんが)、熟読しました。きっと25歳のわたしには読めなかったな、とも思うので、そういう「進歩」はもちろんあるのですけれど。
 「七面体 向日葵」、ブルトンにとっての「七つの城」についてです。
 これを読みながら、わたしもわたしにとっての「七つの城」あるいは「七つの庭」を想像してみようか、などと思いました。
 でも、こういう味わいのテクスト、もうなくなってしまいましたね。「七面体 向日葵」、想像力がこういう方向に花開かなくなってきていると思います。
 さみしいですね。


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