★ 日日行行(361)
* 今日でひとつの区切りにしようかな。そういう気持ちになりました。青学の研究室の片付けをはじめてから約3ヶ月。本の整理、過去のドキュメントの整理、同時に、フランス現代哲学との「遭遇」の記録を書いていたのですが、もちろん片付けも整理もまだまだ終ってはいないのだけど、このまま過去に向かいあっているだけではいけない。新しいなにかをはじめなければならない、という声が湧き上がる。
で、ぼんやり窓の外の風に揺れる樹々の茂みを眺め、遠い雲に思いを馳せ、そう、こういうときは、偶然にまかせるようにして、手近な書棚から本を取り出す。すると、わたしの手がとった本が、ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』そしてガストン・バシュラールの『火の詩学』、どちらも原書ではなく訳書でしたが、そこにはっきりと指示記号が書かれていました。
ーーーー「そのとき、わたしはわたしの実存のテーブルを前にするのではなく、わたしの無Néant を愛撫しつつ、わたしの非実存Non-Existenceのテーブルを前にすることになるだろう」(バシュラール)
ーーーー「好きなものだけを書くこと。ひとつに結びつけるために書くこと。美のかけらを再び集め、もう一度その美を組み立て、つくるために書くこと。そうすれば、言葉のなかに宿っていた樹木が、岩石が、水が、光のかけらが燃え上がって新たに光を放ち、澄み渡り、ほとばしり、踊り回るのだ。人は火から出て火のなかへと至る。内にも外にもいたるところで奇妙な炎が燃えている。」(ル・クレジオ)
こうなると、やっぱり「火」ですかね?
けっして誰も読まない、わたしだけの「火の詩学」を書こうとしなければいけないのでしょうか。
(まあ、また5頁で放り出して「屑」となるだけだ、という声も聞えてこないわけではありませんがね、そのときはフェニックスを信じて燃やしてしまいましょう。)