破急風光帖

 

★  日日行行(355)

2020.05.22

* (2)
R——「あっ、少しわかるような気がします。先生は、フランスのジャック・デリダの哲学の流れをひく人ですから、やはりこのウィルスという存在をつかってディコンストラクションしようとしているんじゃないかしら?
D——「さすが、わが弟子、理解がはやいなあ。でも、そうなら、なにをディコンストラクションしようとするのだと思う?」

R——「〈生命〉かな?」
D——「そう、〈生命〉というもののある種の固定観念というか。つまり、細胞膜によって明白に自—他を区別された〈生命〉に対して、ウィルスがまるで物理学で言う〈トンネル効果〉のように膜をすり抜けて、他者を乗っ取るわけで、この〈乗っ取り効果〉に〈生命〉の新しい理解を見出すみたいな・・・まだ十分に展開できないけど・・・
R——「でも、そうなると、なんだか、ウィルスを、賛美とは言わないまでも、肯定しているように響きますけれど・・・」
D——「そう言われて、浮かびあがるのが、なぜか、わたしの好きなフランスの詩人フランシス・ポンジュの詩集のタイトルLe parti-pris des choses(日本語では「物の味方」と訳されていますね)のこのParti-prisという言葉かな。つまりLe parti-pris des virus、〈ウィルスの味方〉、いや、日本語の同音異義に引っ掛けて〈ウィルスの見方〉としようかしら・・・
R——「先生、これは中国の雑誌のための原稿ですよ、日本語で遊ばないでください」
D——「ごめんごめん。いずれにしても、わたしとしては、ただウィルスを「敵」として闘う、というのではなく、もちろん闘わなければならないのですが、同時に、ウィルスというこの奇妙な存在を、完全な〈他者〉としてではなく、むしろ自−他の根本的区別を解体しつつ、自己増殖する、おぞましくも根源的な存在の原型として考えようという方向なんですね。」
R——「それ、危ない思考ではありません?」
D——「もちろん。でも、この危機にあって、そのような〈危険〉を冒険しなかったら、思考の使命に応えられませんよ。ウィルスと闘うのは、それぞれの専門家にまかせて、無力なフィロソファーは、木陰で蜘蛛が巣を編むように、こっそりと無意味な思考の冒険をひとり吐き、呟くのです」。
R——「わかったわ、先生は、われわれもまたウィルス的なのではないか、という方向に行きたいのね」
D——「ありがとう。そう、新型コロナ・ウィルスのこの猛威が、いま、われわれに見せつけている、おそろしさ、おぞましさ、途方もない災厄・・・でも、そこには、〈生物〉以前の、われわれの〈生命〉の根源的な存在論が、あまりにもシンプルな形で透けて見えているのではないか。そう、思うのですね。われわれもまた、われわれという〈意識〉以前において、ウィルス的なのでは、と。しかも、それは、ほんとうにわずかな量の情報の組み合わせなんですよ、実体としては。しかも、その組み合わせが変異していくわけです。変異によって産み出され、そして増殖し、また変異し・・・このおそろしいセリー。情報の組み合わせのセリー、それこそが、ウィルス的存在論の本質ですよね。
R——「すでに、〈乗っ取り〉という言葉が何度も使われましたけれど、それは、まさに、ハッキングとか、いまの情報テクノロジーの中心的な問題に対応しているように、先ほどから感じていました。」
D——「まさにそうなんです。ウィルスと情報テクノロジーとは、まるで鏡のように向かいあっている。それこそが、21世紀、この地球に生きる〈人類〉にとっての現実です。その現実が、まるで槍の切っ先のように、地球に生きるすべての人間のひとりひとりに、子どもから老人まで例外なく、突きつけられているんです。」
R——「実際、コンピュータ・プログラムに〈ウィルス〉という言葉が使われていますものね。どちらも同じように〈乗っ取り〉をする。人間の目には見えない〈無限小〉の情報が、巨大なシステム・プログラムを〈乗っ取っ〉てしまう。でも、コンピュータ・ウィルスは、あくまでも人間がつくったものですよね?人間がそれを〈悪用〉しているわけですよね?」
D——「もちろん、そうですね。でも、そこにとどまると、生命的であれ、コンピュータ的であれ、ウィルスは、ただほかにもたくさんある〈悪〉の〈道具〉のひとつということで終ってしまうでしょう?そうではなくて、わたしとしては、生命としてあるわれわれ人間そのものが、根源的にウィルス的であるのではないか、という方へ冒険したいんですね。だってそうでしょう、人間という種こそ、この地球の〈自然〉なるものを〈乗っ取って〉、自己増殖しつづけている根本的にウィルス的な存在ではないですか?」
R——「テクノロジーによって、地球環境をすっかり改変し、膨大な数の生物種を絶滅に追いこみ、自己増殖しつづけている、と。」
D——「たぶん、ここで問題になっているのは、〈人間〉と呼ぶことができる以前のなにかなんですね。ウィルスは〈生物以前の生命〉とはじめに言いましたけれど、〈人間〉という明白な意識をそなえた〈生物〉としての〈生命〉ではなく、それ以前の、いくらかの特異な情報の集合にすぎないような〈生命〉。でも、われわれもまた、そのようなものであるのかもしれない、といま、問われているように思いますね。人類よ、おまえもまたウィルス的に存在するのではないのか?みたいな!一方に、長い歴史を経てようやく辿り着いたコンピュータという情報テクノロジー、そしてもう一方に、細胞的な生物の以前であるようなウィルス、このふたつのあいだで、われわれは、〈情報〉と〈生命〉のあいだに橋をかけることを求められているように思いますね。それは、〈人間〉とはなになのか?という問いを、その観点から、新しく更新することを迫ってきている。はたして〈哲学〉と呼ばれてきた実践が、そのような問いに応答することができるのかどうかすら疑わしいのですが、しかしそれを引き受けようとすることにしか、〈哲学〉の〈いま〉はないと思いますね。」
R——「先生が最初におっしゃった〈希望〉というのは、そこではどうなるのでしょう?」
D——「この事態が、地球上の誰にとってもとても切迫した問いだということ、そこに〈希望〉を見出したいですね。思想や宗教といった既成のイデオロギーでは立ち向かうことができない新しい現実が、すべての人に、まさに等しく、開かれている。誰もがこの現実に直面している。誰もがそこで、意識的にしろ無意識的にしろ、「わたしは何であり、わたしは誰であるのか?」という問いをつきつけられている。それこそが〈希望〉ですね。
 そしてあえて付け加えれば、その問いを、こうして、まさにコンピュータ・テクノロジーを用いることによって、とても遠くにいるあなたと、いま、同じ時間を共有しながら、この〈近さ〉において対話できる、そこに〈希望〉があります。ありがとうございます」
R——「先生、今回はここまでですね。こちらこそ、ありがとうございました」
 そして、画面から彼女の美しい顔が消える。R(NA)は消え、D(NA)だけが、夕闇迫る東京の小さな部屋のなかに取り残される。


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