破急風光帖

 

★  日日行行(351)

2020.05.18

* 前回から少しあきました。山は2泊で戻ってきたのですが、その後の週末は孫たちの相手でくれていきした(今日も「保育園」開業かな?娘たちのリモート・ワーク支援に、無職の爺さんがかり出されるという構図。)楽しくないわけではないですけれど・・・

 5月5日の本ブログ(345)で、デリダへの質疑応答のテクストを翻訳していると書きましたが、その後、それは『理想』1984年11月号デリダ特集に収録されていることを発見!すっかり忘れていました。早稲田で高橋允昭先生が主催したデリダの会で行った質問でした。一応、事実を報告しておきます。

 この春はずっと自分自身の過去の資料を整理しているのですが、つくづく思うのは、「三日坊主」ということ。つねになにかをはじめようとするのだけど、なにひとつ完遂しない。あきれ返りますね。書きかけのノートの類いは何十冊もあるし、いや、印刷されたものだって、さまざまな試みがありました。「夏の哲学」とか「日付のある哲学」とか、いまだに心残りの「大地論」(序説は書きましたが本論は書いてません)、「祈りのコロナ」論とか・・・若いときの物語論もあったなあ。
 なんとなくブランショ流に、「断片」とか「脱作品」とか言ってみてもいいけど、結局は、根気がなくて移り気ということなのかしら?どこかに、わたしごときがこんなの書いても意味ないし・・・みたいな感覚もありますね。最終的に「屑」ばかり。それもわかっていて、「でも、屑にも光が差すのだ!」みたいな居直りを言っていたりする・・・でも、こう言うということは、この人生、研究などということをやろうとしたわけではないということでもある。
 すべてが書きかけ中断の「屑」断片。仕方がないねえ、こういうヤツだものねえ、みたいな。
 で、毎日、それでも「屑」を整理して、捨てる屑と(まだ!)とっておく屑を分別してるわけですね、分別屑!意味ないっすねえ・・・と(自嘲はせずに)笑ってしまいます。
 


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