破急風光帖

 

★  日日行行(343)

2020.05.03

* 今日はきびしく「哲学者はいったいなにをしているのか?」と問い質されました。

 いただいたメールには「生と死、貧困、民族、戦争、病、不自由に直面し、自分には選択の自由さえない人生の中から哲学が編み出され、机上からではなく、現実の社会から昇華したものと考えると、現在のウイルスによる、行動の自由を奪われたくらいでは、新たな哲学は見いだせないのでしょうか。」とも。そのとおりですね。哲学というより、フィロソフィアですが、それは、わたしの考えでは、自分自身の存在のもっとも深いところを通過しないと新しさに到達できません。過去の哲学の学説をいじったりするのは「哲学学」にすぎませんし、現実の喫緊の課題に「現場」で応答するのはポリティックスです。
 フィロソフィアはかならず、早いか遅いかは別にして、「いま」に対して時間差をともないます。ある意味では、すでにこのカタストロフィーを見通しているのでもあり、またこれから何十年もかかって考えていかなければならないのでもある。いずれにしても、いま、ここで、悲嘆にくれている人に差し出す回答も救いも、それはもたらすことができないのです。その意味では、無力です。でも、祈りというものが、まさに無力だからこそ起こるように、フィロソフィアもまた、無力の自覚から出発してこそ、それでも他者にとっての「希望」であるかもしれない言葉にいつか辿り着くべくロゴスの道無き細道をたどろうとするのだと思います。
 わたし自身が感覚できるのは、これが人類にとってのひとつの転換点だということ。これを超えたときに、人間がみずからをどのような存在として再認識するか、とが問われている。そして哲学者という存在があるなら、それに対して、自分の存在から出発して(科学のようにエビデンスからではなく)応えようとしなければならないなんであれ、その応答は、自分の内部から来るのでなければなりません。自分の内部に広がる波打ち際に、波に足をとられながらも、立とうとする、それしかありませんね。この転換を、ひとつのchanceにできないだろうか、人類に思考にとってのchance、そんなことぼんやり考えているだけで、少しもフィロソフィアになってませんね。
 哲学というものも、どこかに本質的な「若さ」が必要です。わたしは、そのような思考の若さだけはなんとか維持したいと思ってやってきたのですが、そろそろ限界なのかもしれません。
 
 


↑ページの先頭へ