破急風光帖

 

★  日日行行(335)

2020.04.25

* 「1971年、まだ僕が21歳くらいで書いた自分の詩の作品に「無心伽藍」っていうのがあります。この詩を書いて、僕は詩を書くことをやめて、詩人になるのをやめて、詩人になりそこねた人間になったんですが、そのときの「心なき伽藍」っていうイメージがここで戻ってきたように感じました」。

 と語っているのはわたしで、2017年に京都工芸繊維大学で開催された「批判力のあるキュレーション」というシンポジムで行った発言。わたし自身が、2012年の軽井沢のセゾン現代美術館の「引き裂かれる光」展で「青」のセクションのキュレーションを行ったときのことを振り返っているのです。それは、東日本大震災を受けてのキュレーションでしたが、この発言をここに引用したのは、今日、そのシンポジウムの記録を含んだ新刊『キュラトリアル・ターン』(三木順子監修、昭和堂)が届いたからです。
 この本には「〈ドリーム・キュレーション〉をめぐる対話」というわたしの書き下ろし原稿も含まれていますが、シンポジウムの記録をあらためて読み返していて、こんなふうに「詩人になりそこねた人間」と自分を規定しているのがおもしろかったので引用したわけです。
 でも、いまでは、そうだなあ、次々と詩集をつくる詩人にはならなかったけど、そのようないわゆる詩作品を自発的に書こうとはほとんどしなかったけれど、そのかわりに、なにか他者からの呼びかけがあったときには、それに応じて書いた文章は、ある意味では、詩的だったなあ、と思いますね。つまり詩は書かない詩人として「ことば」で行動してきたように思います。いい意味でも悪い意味でも、それがわたしだった、と。伽藍ではなくて、がらん。まさに「無心」で。自分の「心」から出発して詩を書くのではなく、なんであれ、他者の「呼びかけ」に応えるようにしか、言葉が動き出さないんですね。まあ、それは、自分の(こういう言葉を使うのはいやだけど)「才能」をたいして信じていないからですね。わたしごときが書いても意味ないじゃん、みたいな。でも、そんなわたしでも、誰かが「書いて!」と言ってくれるなら、じゃあ、あなたのために・・・とけっして怯まないのがまたわたしでもあるのですが・・・


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