★ 日日行行(327)
2020.04.17
* 前回、エルサレムのことを書いたのは、TVのニュースで復活祭が取り上げられたときに、今年は聖墳墓教会でも観衆なしで祭儀が行われたという映像を見たからでした。わたしが訪れたときも、同時に、異なった宗派がそれぞれミサをしているというすごい状況でしたから。あのときのことを強く思い出したのでした。
今日は、わたしの日常に戻ります。いま、少しずつすすめているのは、わたしとフランス現代哲学/思想との遭遇を語る本。わたしがどのように70年代以降のポスト構造主義と言われるフランス哲学の「師」たちと出会ったか、ということを、わたしがこれまで書いたり、語ったドキュメントを通して振り返ってみる本です。
いま、その最初のバルトとフーコーとの遭遇について短いまとめを書いているのですが、そのあとは、わたしの先生であったリオタール、そしてデリダとつづける予定です。これらの人を、わたしは研究したことはない。研究書なんて一冊も書いてない。ただ出会っただけ。そのように生きることができたことに、わたしはいまとても満ち足りています。かれらは、研究対象ではなく、「隣人」だった、「先生」だった。誰だって、自分の「先生」を研究したりはしません。先生がそこにいて、そこで生きて呼吸している、そこで考えている、それが決定的なのですね。学びとは、そういうことなんだとわたしは思います。少しでもそういうことを伝える本ができたらなあ、と思っていますが、さあ、どうなるでしょう。
わたしの人生の軸であったフランス現代哲学との遭遇、自分のささやかな「冒険」を振り返りながら、わたしとはいったい何であったのか、もう一度、ちゃんと考えてみなければならないような気がしています。