破急風光帖

 

★  日日行行(326)

2020.04.16

* 今月号の雑誌『UP』(東京大学出版会)で、中島隆博さんが書評を書いているのですが、その「枕」に、わたしの名をあげてUTCPの海外共同研究の一環で、いっしょにミラノに行ったこと、そしてエルサレムに行ったことを書いています。そして「もう一度エルサレムは訪れてみたい」と。

 わたしもそう思います。もう一度、エルサレムを訪れることがあるのだろうか、と。あの経験は、わたしにとっては、特別な経験、特別な旅、まったく別格のものでした。だからこそ、その経験を語るのに、わたしは「詩」を書くしかなかった。「詩」といっても、詩作品などというものではなく、旅のあいだ中、一冊のノオトに、その瞬間ごとの「激しさ」を言葉にするしかなかったということです。この「詩」は、拙著『存在のカタストロフィー』(未来社、2012年)に収録した「来るべき、詩ーーパレスチナ・ノートより」に反映されています。
 いくつもの激しさがこの旅を横切っていくのですが、いま思うと、(中島さんとはいっしょではなかったですね)、ゲッセマネを横切って聖墳墓教会に降りていき、(予想していたわけではないのですが)そこで聖母マリア(わたしにとっては「ミリアム」という名です)の墓に詣でたことが、なぜか意味深く思い出されます。
 不思議ですね。

 「緊急事態宣言」が全国に拡大されるというニュースを聞きながらこれを書いているのですが、このコロナの災厄、人類はもう以前の段階にただ戻るということはなく、きわめて大きな転換点になることはたしかだと思われますが、来るべきカオスの時代、人類はいったいどのように方向を転換するのでしょうか?そのことを考えなければならない。そう思ったときに、なぜかエルサレムの激しさ(ほかにもたくさんあったのです)が甦ってくるのでした。もう一度エルサレムを訪れてみたい、わたしも強くそう思います。
 


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