★ 日日行行(310)
* 「きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横にすこし押してみるがうまく開かない」(ミシェル・ビュトール『心変わり』、清水徹訳、岩波文庫)
イタリアのことを思うと心がつぶれます。毎日、コロナ関係のニュースを追っていますが、急角度で死亡者が増えていくイタリアのニュースに触れるたびごとに、「煉獄」どころか「地獄」の光景を想像していたたまれない思いにかられます。こうなっては、もう、ブログで呑気に、引用シリーズなでやっていられない、というような。迷い、動揺もありますね。でも・・・・
前回に「小説」という言葉を書きつけてしまったら、なにか小説を読みたいな、と思って、本棚からいろいろ取り出してながめていたのですが、「イタリア」という信号のせいか、1957年のビュトールのこの小説をぱらぱらと目を通すということになりました。パリとローマとのあいだの三等列車という舞台、「きみ」という二人称のスタイルなど、おもしろいところはたくさんあって、いまでも新鮮。清水徹先生の訳文もすてきです。
ただ、同時に、「小説」という言葉を書いたあとで、わたしの心に去来した思いは、「小説」じゃないよな、「小説」は終ったな、みたいな感覚。その意味は、「小説」ではなく、「物語」という方向ですけれど。「小説」は、「物語」のかくも近代的な特異的派生物にすぎない。少なくとも「小説」はもはや自明ではない、ということですね。こう言いながら、わたしがどういうことを考えているかをここで説明することはできませんが。
これは、「ビオーグラフィ」(生ー伝)とも関係しますね。そう言えば、最初は、ロジェ・ラポルトの「Moriendo」(「死ぬことで」神尾太助訳、書肆山田)などもぱらぱら読み返していたのですが、もはやこれも、ちがうかなあ、という感じがありました。「この向こう側」こそ、という思いなのですが。
『心変わり』の引用は、冒頭の一文Incipit です。
パリ−ローマの国際列車のワゴンに入るところ。
このように「向こう側」、なかなか開かないんですよね。
きみは、みの精神を占有し続けているミラノ・スフォルツァ城のミケランジェロ遺作「ロンダニーニのピエタ」の像を心に思いえがきながら、あの美しいロンバルディアに噴き出した地獄の災厄が一刻も早く鎮まることを、と祈るのです。