破急風光帖

 

★  日日行行(309)

2020.03.20

* 「ゴーギャンはタヒチに赴き、彼の画布は明るく輝く。ファン・ゴッホ、モディリアーニ、ピカソがパリに来る。すると彼らはそれまでとは違った人間になる。断絶という事件のなかでしばしば起こるのは、人がかつての自分からというよりも、社会や時代のさまざまな事情によって作りなされていた自分から脱皮するということである。しばしばそれは深いところにひそんでいる力を解放し、意識下を、無意識を解放することにほかならない。私たちの生はひそやかに流れるそれらの水の上を走るのだが、その速度が運河の水面を行くゴンドラのそれより遅いのは確かだ。」(フェルナン・ブローデル『都市ヴェネツィア』岩崎力訳、岩波書店)

 研究室の片付けもあって少しあいてしまいました。その片付けの最後は、やはり自分がこれまで書いたりしてきた結構な量の雑誌原稿/新聞原稿などの整理、とても終らないのですが、そのなかに『LOUIS VUITTON NEWS」Fall-Winter 2000=2001なんてのがあって、それが「旅」の特集。
 いまはコロナの騒ぎで「旅」がまるで「夢」そのものになってきた時代でもあるので、片付けの手を休めてぼんやりそれをながめてました。昔はこういうのにも、書いていたんだよなあ、みたいな感じかな。
 引用したのは、「旅の時間・旅の光」と題して、いろいろな人の本から旅の本質を書いたところを抜き出して並べたテクスト。取り上げたのは、武満徹、和田忠彦、安藤忠雄、須賀敦子、吉増剛造、それにブローデルでした。イタリア/ヴェネチアに関するものなどが多いのは、じつは、前の頁に、わたし自身のヴェネチア旅行のエッセイが載っているからです。こんなの読み出すと、心が夢想状態になって、片付けは一向に進まないんですね。
 そのエッセイの最後のところ、もうヴェネチアに着いているわたしなのですが、
「それから、運河に面した涼しいテラスにでも座って長い時間をかけてコーヒーを飲みながら、時差もあって朦朧とした頭でーーもう、まるで他人事であるかのようにーーわたしの生のこの広場はこれこれの人の名を冠しており、これこれの一方通行路はこれこれの女の名が授けられており、曲がりくねったこの運河にはこっちの女のイニシャルが刻まれている・・・と、出会いと別れが織りなす自分の半生の地形図を「幻のヴェネチア」として描き続けるだろう」。

 でも、もう「半生」じゃないかもしれませんね、「一生」とか??
ヴェネチアの小さな運河に面したアパルトマンに、今度来るときは、小説でも書きますかね、とオーナーの「わが姉」サンドラには言ってるのでしたが、早く行かないと、水があがってかれらのアパルトマンも使えなくなるかもしれないし・・・でも、行くなら、わたしにとっては「罪」の象徴である「藤」が咲き誇る季節がいいんですけれどね、もうすぐだから、今年はだめかなあ・・・そう、ヴェネチアは「煉獄」なのです。おお、わが「煉獄」!PURGATPOIR!


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