★ 日日行行(306)
* 「ただ、同時に、人間には、苦痛と快感を・・・このまったく反対なものを一緒にしうるような領域があるんですよね。芸術は最終的にはそこに突入する・・・芸術とは単に、心地のよい環境を与えることではなくて、芸術がなぜ必要かというと、芸術はどこかで絶対的に苦痛な体験・・・なんですよ」
と語っているのは、わたしです。2005年7月31日。かつて表象文化論のわたしの学生でもあった映像アーティストの相内啓司さんとの対談の記録から。相内さん、この春、つとめてらした京都精華大学を定年退職ということで、ご自分の作品集を、DVDと冊子を組み合わせたお洒落なBook「い(ま)え」(ミストラルジャパン)として刊行なさいました。「IN-BETWEEN(存在とイマージュの境域)」というのが、サブ・タイトル。かつてのわたしとの対談が「存在とイマージュ」をめぐってだったので、それを再録してくれたのです。
このときの対談の言葉をここでもってきたのは、先日の「君自身の音楽へ」の講義のときに問題になったことのひとつの答えが(すでに)ここにあるよなあ、と思ったから。昔のほうが、言葉のキレがいいかもしれませんが、「わたし自身の哲学」は変わりませんね。
でも、ここでわたしが言っていることを、ほんとうに自分の身においてわかるというのはなかなか難しい。アートを自己表現だなどと勘違いしていたり(君の「自己」なんてつまらないでしょ?)、演奏家などに多いですが、技術的なアプローチしかなかったりすると、アートの真髄には届かないと思いますね。研究者だって同じ。歴史的な資料をどんだけ積んだって「存在とイマージュ」には届かないのに・・・資料を並べてるだけで、自分自身の「演奏」がない、なんてことになってるんですけれどね・・・まあ、その意味では、いまの思考の文脈で言えば、「アートこそ悪だ」、というトンデモナイところに飛躍してもいいのかもしれませんが、そうすると、もう帰ってくる場所がないんですね。