破急風光帖

 

★  日日行行(305)

2020.03.12

* 「権は、経・常・正といった語に対する言葉で、仮のやり方である。権道とか権現というのがそれにあたる。それはもともと権が秤で重さを量ることであって、計るとか判断するという意味をもっていることに由来している。」(中島隆博『悪の哲学』、筑摩書房、2012年)

 昨日の東京芸術劇場・ウィンド・オーケストラ・アカデミーでの講義は、質疑を入れて3時間、休みなしで。人が来ないのではと思っていたのに、東大の学生とか、青森から!駆けつけてくれた人とか、30名ほどの若い人たちが集まってくださって、わたしとしてはテンションをあげて『君自身の音楽へ」を語らせてもらいました。楽しかったです。やはりわたしは、こういう場で、若い人に挑発的に、知識からではない言葉を、その場で、送り届けるということが好きというか、得意というか。わたし自身の「法」ですね。呼んでくださった木許さんに感謝です。はじめて「演奏とはなにか」ということをまじめに考える機会になりました。

 で、次は、「悪」。
 というのは、世界情勢がこうなるとどうなるのかはわかりませんが、6月末予定されている「悪」についての国際的哲学シンポへの準備をしなければなりません。中島さんとパネルを組もうとしているので、その軸線を見出したいと、このところ哲学的思考を展開しようとしているのですが、なかなか難しい。でも中島さんの『悪の哲学』を読み直していて、この「権」のところで立ち止まりました。わたしもまた『君自身の哲学へ』のなかでこの「権」(ごん)に寄せて、それを「アバター」として考える方向を打ち出していたからです。この字は、「人権」、「権力」、「権利」と政治的支配の中核を多義的に示しています。ここにディコンストラクションのひとつの可能性があるかな、と。
でも、それをどう「悪」とリンクさせるか、難問です。
 と書いたら、突然、頭のなかに、「君自身の悪へ」というフレーズが浮かびましたが・・・!?
悪くないね?「わたし自身の悪へ」...よし、考えてみようか。


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