破急風光帖

 

★  日日行行(304)

2020.03.10

* 「四歳の頃、祖母は私を毎日のように森の散歩へと誘いました。その森で、私は迷ってしまったのです。一人ボッチで森を彷徨っていたあいだ、私を取り巻く樹々は、いわば全て知恵の樹だったのです。その時、私は静まり返った森の調和と、私にひたひたと押し寄せる恐怖のメロディーとを感じていました。その日、私は自分自身を明確に意識しました。しばしば恐怖と苦痛は、通常は日常の調和の影に隠れている自我を目覚めさせます。」(V.アファナシエフ『天空の沈黙』田村恵子・訳、未知谷、2011年)

 ピアニストのアファナシエフの本。かれのブラームスの演奏に魅せられてコンサートにも2回ほど行きましたね。じつは明日、東京芸術劇場の一室で、音楽について語らなければならないので、目下、勉強中。付け焼き刃ですが。東大の大学院で教えた指揮者の木許さんからの依頼です。音楽の哲学を語れ!というご要望。嬉しいですね、こういう挑戦は。1年半前にも、代官山でしたが、彼から同じような機会をいただいて、そのときは、なんとわたしが23歳頃に書いたバルトークの曲についての分析ノートを披露させてもらったりしました。カフカを引用したりして、なんとなく手口は今とかわらないですね。
 さて、今回は、どうするか?今日になってもまだ方針が決まりません。

 昨日は青学の研究室の片付けのひとつの山場でした。懇意にしている古本屋さんに来てもらって、段ボール16箱分、もっていってもらいました。本との別れ!大学という場のありがたいことは、本をもっていられること。わたしのように、芸術、文学、哲学、歴史・・・とジャンルを問わず、本を抱え込んでいる人間にとっては、研究室という自分だけの「図書館」がもてなくなるのは、さみしい。どの本にもそれなりの「過去」や「記憶」があるわけで、それと別れることが、この春の最大の心の動揺ですね。(別れきれなかった本がそれでも段ボール数箱以上。やれやれ、それを狭い自宅に運ばなければ!)

 もうひとつ、昨日は、わたしとイレーヌ・ボワゾエールさんとの詩画集「D'eau et de feu」を買ってくださった人がおりました。わたしとの出会いの記念に個人でもっていてくださると。もちろん、ご婦人ですが、嬉しいです。これで手持ちあと3冊になりました。

 フランスもわたしの帰国のあとに急速にコロナ・パニック広がっていますね。経済も赤信号点滅で、今週が、世界的に、ひとつの山場。なんとか、押さえ込めるカーヴの方に向かってほしいですが・・・
 ああ、なんという春!弥生不吉!
 春雨に煙るグレーの空にむかって、祈りをささげます。

 冒頭のアファナシエフの引用に続く部分は以下のようです。ここに「音楽」の原点がある、とわたしは言いたいのですね。この部分がこの本でもっとも貴重な部分です。
 「その後、すぐに私は、この時獲得した自我の認識を失ってしまいました。しかし、五ヶ月後、黒海の浜辺で、というより黒海の中で、自我の認識を再び見出します。そのとき、私は溺れかけていました。この恐ろしい出来事のさなか、私には海の音のハーモニーと、ワグナーの無限に美しいメロディを湛えた私自身の心の奥底から響くメロディーが聴こえたのです。
 
 (昨日、青学構内のハクモクレン)
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