★ 日日行行(302)
* 「福永さんは本当にダンディーだったから、電車に乗っていても何となく人目をひいた。淡い黄色やモーヴ色が好きだったが、そんな色の服を来ている人は、今と違って殆どいなかったのである」(辻邦生、「のちの思いに」44)
日本経済新聞の1999年8月1日の朝刊。まるごと1部保存されていたので、さて、わたしの書評でも?とさがしても、ない。で、わかったのは、辻邦生さんのこのエッセイのために取っておいたのだ、と。なにしろこの稿の最後に「辻邦生氏は7月29日に亡くなりました。本稿は遺稿として掲載します」と「お断り」が書いてあったのです。
辻邦生さんとは、わたしが学習院大学の大学院の非常勤講師をしていたときにお知り合いになりました。そして、わたしはちょうどこの半年ばかり前、98年12月18日に先生を、東京デザインセンターで行っていたロレアル賞連続ワークショップにお招きしているのです。そのとき先生は、「運命の力に押し流されていくのが大部分の人間であるとすると、その中から、自分だけの生き方のもつフォルムの美しさというようなものを、死ぬまでの間に何らかの形で描き出していきたい。それは自分に加わるさまざまな力に対する反抗だと思うんですね」と語ってらっしゃいました。
そうだそうだ、この歳になってほんとうに、わたしもささやかながら、そう生きたいと願いますね。
あ、冒頭の引用の「福永さん」は、もちろん先生の学習院大学の先輩同僚であった作家の福永武彦さんです。わたしは福永さんの小説もずいぶん読みましたけれど、お会いしたことはありませんでした。辻邦生さんは、わたしのパリ留学中の愛読書の著者であったこともあって、お会いできたのがとても嬉しかったですね。先生ご自身が「美しい人」でした。
でも、それだけではない。この日経新聞99年8月1日号、最後の頁に「詩歌の森へ」という短いコラムがあって、そこには「民田茄子というのをご存知だろうか」ではじまり、芭蕉の「めづらし山を出羽の初茄子」の句を引いた、芳賀徹先生のすてきなエッセイが掲載されていました。
芳賀先生、つい先日、わたしがパリ滞在中にその訃報に接しました。
わたしにとっては、東京大学の学生としてはじめてフランス語習った先生であり、その後もとても親しくさせていただきました。先生のお宅にも、学生時代、毎年お正月にはうかがったものでした。
わたしが東大の教員になって、最終的には、自分の出身である「比較文学比較文化」の教員にはならずに、新しくできた「表象文化論」の教員になることを選んだ、それは、わたしの人生にとっては、きわめて重大な分岐点だったのですが、つまりは芳賀先生のご期待に背く道を選びました。
それはいまでもわたしの心の傷でないわけではないのですが、でも悔いのない選択だったのです。
こういう場所ですが、芳賀先生のご冥福を心よりお祈りもうしあげます。