破急風光帖

 

★  日日行行(292)

2020.02.22

* パリでは誰もマスクをしていないのですが、それでも日本に帰る日も近いと、薬局に行くとマスクは売りきれ。どうなってるんだろう?でも、別にアジア人に対する「差別」など感じません。どこかでそういうことがあったにしても、空気のなかにそれが感染しているわけではない。まったく、ウィルスのケースと同じことです。

 話を変えて、前回の続き。3月に京都工芸繊維大学の三木先生の研究室から、3年前に行われたキュレーションをめぐるシンポジウムの記録を中心にした本が出ます。わたしはパネルの記録以外にも、一本原稿を書いたのですが、先日、三木先生からこの本のための著者紹介の文をください、と頼まれて、書いたのが以下の文章。まあ、現時点でのわたしの心境でもありますので、掲載してみますね。
 「フィロソフィア(哲学)とポエジー(詩)という二つの極のあいだでクリティーク(批評)的言語行為を実践してきたと自分では思っています。それを「表象文化論」と呼んでもいいけれど、いずれにしてもいわゆる「学」とは異なる実践でした(哲学は「学」ではありません)。フランス現代哲学(デリダ、リオタールなど)との対話を通じて形成された土台の上で、広く芸術・文学・文化の「根源」を究明しようと試みてきました。」 これがいまのところ、大学というコンテクストでは、自分についての認識ということになりますね。

 今日は、昼に、友人の野本さんがやっている國虎屋で、画家の原田宏さんと東大の福島亮さんと会食。福島さんからは、70歳の誕生日祝いとして、ピンクの薔薇をいただきました。やっぱり「アンソロジー」、花が集まるパリの日々かな?
 福島さんには、より学術的な途としては、やはり『起源と根源』でのハイデガーとの対決を経て、次の「大地論序説」(『表象の光学』)で自分なりの仕事を展開しようと思ったのだけど、これが中途半端で挫折。それを、2000年以降取り戻そうと「祈りのコロナ」を書いて挑戦をするのだけれど、これもまた、中途で挫折と。挫折ばかりの途であったなあ、と感慨を洩らしてしまいました。
 やはりじっくりひとつのことを追いかけ、追いつめる持続力がなくて、次々と降ってくる新しい対象との出会いにクリティークとして向かい合うという実践がおもしろくて、ついに「大きな仕事」はできませんでしたね、と。「断片」ーーこのブランショ的エクリチュールがわたしのエクリチュールだったのだと思います。

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